雪と氷の原野を踏破した福島中佐は、いよいよ清国領満州に入りました。帰国まであとわずかとなりましたが、見知らぬ異国は中佐にどのような姿を見せるのでしょうか。
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■愛琿(アイグン)城に入る
3月19日、午前11時にブラゴヴェシチェンスクを出発した。アムールコサック連隊長及び連隊将校並びに長槍を持って軍装を整えた同連隊の第一中隊が中佐を見送った。
市内でしばし立ち止まって写真を撮り、すぐにアムール川の氷上を渡って満州に入る。5露里ばかり進んだところにあった松林の辺りで連隊長や将校たちと別れた。騎兵大尉のボヤルスキー氏及び第一中隊の兵等とともに右岸に沿って村々を過ぎ、再び氷上を渡って左岸に上り、コサック第一哨所で休憩した。ここはブラゴヴェシチェンスクから15露里にある河畔の一孤屋であり、10人の下士卒が駐屯している。その中に胡弓を弾く者がいて、軍歌と合わせて数曲を演奏してくれた。再び左岸を行くこと25露里、午後7時半にコサック第二哨所の東隣にあるアムール川汽船会社の支店に泊まった。ブラゴヴェシチェンスクの本店から事前に連絡が入っていたので、支店員たちは準備して待っていた。第一中隊の大尉・中尉・少尉各1名とボヤルスキー氏もここに泊まった。この夜、中佐は中隊長の許可を得て第一中隊の兵たちに10ルーブル与えて労をねぎらった。ブラゴヴェシチェンスク以東ここまでの地に住む満州人は数千人を下らないとのことである。この日、空は曇って風が冷たく、正午で零下10度にまで下がった。翌20日、黒竜江省駐防八旗に在籍する一人の清国人が愛琿(アイグン)からやって来た。彼は燕麦の商業取引でしばしばの地にやって来ており、支店の主人とも顔なじみでロシア語に堪能であったため、現在は愛琿副都統の通訳官をしている。名を孫功額布(スンコンオフ)と言った。この日彼が来たのは、副都統の内意を受けて中佐の様子を調べるためであった。午前11時半、黒竜江に臨んで右岸遥か彼方に愛琿の市街が見えた。中隊長は騎兵を整列させて中佐に別れを告げた。中佐は馬をその前に進めて別れの挨拶をした。氷上を渡って8露里進み、午後1時50分に満州黒竜江省の愛琿城外に至った。去年11月25日に清領蒙古を出発してキャフタに着いて以来115日で再び清領の山河と相見えたのである。その時、孫氏とボヤルスキー氏及び一人の騎兵と同行していた。孫氏が「私は愛琿副都統の命を受けている。貴官を館に案内するので副都統に会っていただきたい」と言った。それで、まず一緒に孫氏の家に行った。天候は暖かくなり、雪が溶けて道路はぬかるんで泥だらけである。孫氏の家は城の東門の外にあった。純然たる支那風の家であるが、窓にはガラスを使い、窓と窓の間には観賞用の盆栽を並べている。壁にはロシア皇帝の肖像ほか2~3人の写真を掲げ、西洋風の雰囲気を演出している。■愛琿(アイホ)城中
愛琿城は丸太を縦に並べて築かれた城である。東西南北に一つずつ門がある。城中には、副都統の館と庁舎及び電報局がある。町は正門の外にある。人家が隙間なく建ち並び、実に繁盛した所である。しかしながら、街路は狭くぬかるんで実に汚い。そうこうしているうちに、孫氏と一緒に副都統の館に着き、副都統を表敬訪問した。
ところが、副都統は他の用事があるという理由で、会おうとしない。用事の内容はというと、全く理解できないものであった。ここで初めて、旅券に書かれた「放行(自由通行許可)」の文字がまだ妨げとなって、総理衙門(清朝外交部)の確認がいまだにとれていないことを知った。そこで、城内を一通り見てから帰った。そもそも、愛琿は小興安嶺の近くにあって黒竜江に臨み、河を隔てて強国ロシアと相対している。まことに辺境の重要地点なのである。それ故に副都統を置き、8軍団2300人余りを駐屯させている。明治16年(この時福島中佐は北京にいた)、清国政府は満州八軍から子弟を選抜して黒竜江沿いに練軍という精鋭部隊を配置し、西洋式長槍兵一大隊、抬槍(大型火縄銃)歩兵一大隊を置いていた。それから十年が経ち、その間にヨーロッパ各国の軍事技術は驚くべき進歩を遂げているにもかかわらず、この地の練軍は既にその実質を失い、わずかに辺境守備歩兵と騎兵が一団ずつ駐屯するのみであるという。ああ、なんということ!■電報局
電報局は副都統衙門(庁舎)の傍にあった。
清国北部の電線は、山海関から錦州、牛壮奉天を経て満州北部に入っているが、吉林で二手に分かれている。一つは黒竜江省を縦貫して愛琿を経て海蘭包(ヘーランパオ、ブラゴベシチェンスク)に至り、ロシアの電線と繋がっている。もう一本は、東に折れて寧古塔(ニングタ、ねいとう:現在の黒竜江省牡丹江市寧安)、琿春(こんしゅん:中国吉林省延辺朝鮮族自治州東端に位置する県級市)を経てロシア国境に至る。その距離は実に数百里に達するが、中継局は海蘭包、愛琿、斉斉哈爾(チチハル)、新城(シンチャン)、吉林(チーリン)、寧古塔(ニングタ)、琿春(フンチュン)の7局だけである。光緒13年(1887、明治20年)電線が架設されてからすでに年月が経っているにもかかわらず、官も民も電信を利用する方法を知らず、緊急のことがあれば駅馬に託して数百里を運ぶことを常として、千里の間を一瞬で伝える電信の力を理解していない。それゆえに、愛琿のような商業の盛んな地でありながら、一ヶ月の電報取り扱い数は五十件ほどに過ぎないとのことである。このことからもこの地における電信事情を知ることができる。ちなみに、電信技師はみんな南方の広東あたりから来ており、英文がよく理解できるとのことである。
■愛琿雑話
市の南に三家廟という一つの霊廟があり、その傍に旅館がある。汚いのは一向に平気なのだが、馬に飼葉を与えることができない。それでとうとう、愛琿副都統の通訳官をしている孫功額布(スンコンオフ)という人の家に一泊して満州旅行の準備をした。彼には一人の妻と一人の妾がいる。数人の子どもがおり、長男はわずか15歳ながらやはり14~5歳の妻がいる。中佐は孫に向かって言った。早すぎる結婚は健康と教育の妨げとなるが、どうして早く娶るのかと。孫氏は答えるのであった。この地にあっては高度な教育は何の役にも立たないから、放蕩に走ることのないように早く妻を持たせ、四書五経の代わりに商売に必要となるロシア語を習わせるほうが良いと。孫氏はさらに、あなたの国も一夫多妻なのかと訊いてきた。いやいや、一夫一妻は人の道であると中佐が答えると、孫氏はなんとまあ不都合なことよ、女は老いるのが早いので、妾をつくって世を楽しく送ることこそ中国の習慣であるよと語るのであった。孫氏の自宅に着いた翌日、孫氏の実弟が中佐を晩餐に招いてもてなした。同席していた一人の医者が、康煕年間に一人の日本人が初めてこの地を通ることがあった、と言った。その言葉はもちろん事実無根のでたらめである。自分がいかに博識であるかをひけらかすためのものであろう。一家の親族が老若男女集まって隙間から室内をのぞき見し、小声でしきりにしゃべっていたが、二三人の少女が室内に入ってきて、両手に小さな袋を広げながら男性の前に進み出て、男性もまた立って腰を屈めて礼をした。これはおそらく挨拶なのであろう。孫は客と語り合ってこう言うのだった。福島氏は日本の陸軍歩兵中佐である。中佐の位は歩兵三部隊を率いるものであり、中国の統領と同じである。皆よく見るがいい。我が国の統領は先が紅色になった帽子を被る清王朝の大人(高官)である。該大人は公私の旅行をするとき、妻妾や下男下女それに護衛の兵士など数十輌の馬車を連ねて列をつくり、百人余りが雲のように従い、送迎する宿泊地の沿道はあわただしくごたごたしていた。ああ、該大人と同じ位の官位でありながら、一人の従卒も連れず、ただ一人三万余里の異境を跋渉する。我が中国の役人が全く出来ないことである。それにしても単騎遠征は何のために行うのか少しも解らないけれど、私的な旅行に関してロシアのアムルール州軍務知事は福島中佐の送迎のために一隊のコサック兵を派遣し、公文書によって中佐の通過を連絡し、電報を使ってその発着を通知している。このことは決して些細なことではない。ここまで言い終わって孫氏は得意げな顔をしている。客人一同はこれを聞いていぶかしそうな顔をしていろいろと疑問や批評を述べた。なぜ伴を連れないのだろう。不自由だろうな。胆が太いなあ。安上がりな旅だなあ。伴を連れないばかりではなく、着ているものまで汚いなあ。のんきなやつだ。何かたくらんでいるのではないか。海の中の小さな島国で、何も知らないのだろう。
しかし、あいつの持っているものは我々のよりかなり立派だ。人間もそのようだ。ついには同情の気持ちで、日本は悪魔のような外国人ではない。漢字を使う我々と同じ人間であると。ある者は罵り嘲るかと思えば、別の人は談笑しあったりして、その場は喧噪を極めるなど混沌とし、まことに清国の現状そのままである。宴会の食べ物はと言うと、銅の鍋に牛・羊・鶏・豚・鴨・雁など7種の肉と野菜・豆・素麺とをごった煮したものである。味はきわめてよい。酒はコーリャン酒と黄酒であり、温めて飲むものである。彼等は好んで親指ほどの杯を挙げてコーリャン酒を飲む。これは火酒であり、黄酒は米から醸造したものである。一同は皆中佐を見ながら統領統領と呼んで酒や料理を勧めるのだった。清国では小隊長を哨官または哨長と言い、大隊長を営官または営総と言い、連隊長を統領と言う。統領の上に馬歩全営、翼長、総統等の官がある。皆、旧制度の八旗緑営にはなかった官名であり、近年の軍制改革で生まれたものだという。■満州横断に必要なもの
【貨幣】それにしても満州の旅にあたって最も必要なのは満州で通用する貨幣であるが、孫氏の世話によってロシア紙幣300ルーブルを清銀150両に交換することができた。愛琿は国境の重要な商業拠点であり、両国貨幣の交換はもともとそんなに難しくはないが、ともすれば悪徳商人のために欺され、尋常ではない苦労と損とを招かないようにすることが難しい。
そもそも、清銀は両であれ銭であれ、我国の貨幣のように決まった形があるわけではない。様々な大きさの銀塊を天秤で量ってその価値を決めるのである。とは言え、天秤もまた数種類あって重さが一定しない。ある所で1両とされても、別の所では9銭にもならないことがある。また、しばしば白銅や銅・鉄などを純銀に混ぜて、堂々と人を欺す者がいて、両替のときに大きな損をすることが多いという。銀塊はどこでも使用できるものではない。必ず銅錢と交換して携行すべきである。銀の単位である両と銅錢の相場も一定の定めがあるわけではなく、両替店が適当に決めたものであるから、愛琿で銀一両の相場が銭で3貫文であっても、他の地方では3貫2~300文あるいは2貫900文になることもある。天秤が一定していないために一両が一両にならず、非常にややこしい。一貫とは1000文の意味であり、満州では1文で2文に換算するから、1貫が1000文とは言いながら、実際には500文にしかならない。一文の大きさは我が国の寛永通宝のようなものである。ゆえに、一貫は我が国の50銭にあたる。一貫ごとに紐で一束にし、100文ごとに結び目で数を示している。銅錢の中には粗悪なものがある。盗賊や無法者たちは国が定めた銅錢を溶かして鉄や土砂を混ぜ込んで、1文を3~4文に増やして鋳直す。規則を乱すことはなはだしいが、国はこれを取り締まらず、一貫の中に少なくとも4~50の悪銭を混ぜて流通させることを黙認しているらしい。また、銀を両替えしようとすると、省・城・府・庁・州・県の地は人口が密集しているのでいたる所に両替所があるのだが、満州のように人口が希薄な所では市街や大きな駅が非常に稀で、両替が簡単にできないので、少なくとも一日平均5貫の計算で10日分50貫すなわち2万5千文を準備しておかなくてはならない。それは嵩高くて重く、携帯には不便である。人口が多く賑わっている所では、役人の許可を得て両替所が紙幣を発行しているが、もろくて裂けやすい唐紙に木版で様々な絵を印刷し、適当に○○貫と書いているに過ぎない。しかも、流通しているのは市街それもごく一部地域にとどまり、信用ある両替所の紙幣であっても数駅の間で流通しているだけである。両替所の入れ替わりも激しいので、欺されてゴミ屑のような紙幣をつかまされることもしばしばある。だから、満州の旅にはこのように重くて嵩張る銅錢を持ち歩かなくてはならないのである。【秣(まぐさ)】それに加えて満州において難しいのは馬の餌となる草が少ないことである。黒竜江省の北部は蓄えられた草があるが、質は粗悪で、馬を養うには不適である。南部の吉林省になると全く秣がなく、粟殻を細かく砕いて水を注いだものがあるだけである。愛琿と墨爾根(モルゲン=現在の嫩江県)の間は燕麦はあるものの、墨爾根から南は無いので、粟殻にコーリャンや小米や豆糟を混ぜるしかない。慣れた馬はよいけれど、慣れない馬は食べる物が不足するので、燕麦や大麦・小麦あるいは麬(ふすま;小麦を粉にひいたあとに残る皮)などを準備する必要がある。
※墨爾根(現在の嫩江県)※訥河市(とつが-し) 清初はチチガル・メルゲン(Cicigar mergen、斉斉哈爾墨爾根)副都統の管轄の下、ブトハ(Butha、布特哈)総管所属の游牧区であった。
【車】銅銭2万5千文と燕麦や大麦小麦を携行するには、乗用の馬2頭であり、一頭は病弱なので駄馬あるいは車を買わなければならない。満州馬は蒙古馬のように強健ではないので、重い物を背負って遠くまで行くことはできない。それで、荷車一輌を雇って、銅銭や麦類、キルギス鞍、燭台、洋蝋、茶、砂糖、馬足止め、旅嚢などを積むことになった。
【人夫】 まぎれもなく荷車が必要だ。馬は弱く、中佐と同じように走ることができない。しかも、満州は盗賊が多く、枕を高くして眠ることができない。しかし、旅券に「助勢」の文字がないので、清国の役人の助けを期待することはできない。夜毎に眠らず馬を守ることはむろん無理なので、支那人を一人雇い、昼は荷車を監視させ、夜は乗馬を見張る分担をさせようと思い、孫氏に相談して雇い入れた。銀銭はすでに両替し、馬の食料もすでに準備した。車も人夫も雇ったので、ここに満州横断の準備が完了した。
■黒竜江駅
3月22日、愛琿城を発し、南へ向かって行く。出発するにあたって愛琿副総統は雲騎尉一人を随伴せしめ、次の駅まで車を出して行李を輸送してくれた。この日は西風が強く、雪も混じって寒さが激しく、シベリア横断時の服を着て馬に乗る。地形は平坦で村落が点々と散らばり、道路上に小石は無く騎行はすこぶる便利である。25清里進んで黒竜江の駅舎に泊まる。雲騎尉の名は祥雲といい彼も同じ所に泊まった。駅舎のことを官房という。役人の宿泊および公用物品の逓送に使う建物である。地方の状況に応じて馬車数輌と駅馬2~30頭から4~50頭を置き、駅内の役夫が交代で世話をしている。駅舎にいる役人のうち人事を担当する者を小頭といい、馬を管理する者を馬頭といい、人馬を管理する者を外郎といい、駅舎を管理する者を看房といい、食べ物を料理する者を大師式という。また、人口稠密な駅舎になると六等級あるいは七等級の役人を置いている。公文書の受発信などには別に指導者がいて監督している。指導者の多くは山東人であるらしい。中佐が駅舎に入るとすぐに宿駅の役人をはじめとする人々が集まって来た。六等級官吏がまず群衆を静かにさせてから中佐にこう聞いた。「あなたは国を出てから7年になると聞くが、旅券を持っているのか」と。中佐が旅券を取り出して見せると役人は疑わしそうにこう聞いてきた。「旅券の日付は光緒17年となっており、7年前ではない。しかもドイツのベルリン出発とあるが、ドイツとはどこなのか」と。中佐は笑ってこう答えた。「私の単騎遠征の途中で貴国に入ることがあり、光緒17年に貴国の外交部に要請してこの旅券を得たものである。貴国の西はロシアであり、その西がドイツである」と。役人は更に中佐の胸を指差して「それは何という玩具か」と言う。中佐は改まった顔つきになって、「玩具とは何ということを言うか。これは勲章と言って、貴国の花翎(フゥアリィン;清国官吏が官位を示すために礼帽の上につけていたクジャクの羽飾り)と同じようなもので、各国の君主から贈られたものである」と言って、詳しくその国名や勲等を説明した。役人が「それではそれは西洋の奴らの物か」と聞くので、中佐は「あなたは貴国にもこのようなものがあるのを知らないのか。双龍宝星章である」と言った。笑うしかないのだが、清国では6等級の役人は今なお自国に勲章があることを知らないのである。役人は再び「あなたはこれらの国の全てに行ったのか」と聞いてきた。その通りだと中佐が答えると、「その他の国も見たのか」と役人が聞くので、「私は国外で7年過ごし、21ヶ国をまわってきた」と答えた。役人がさらにその国名を尋ねるので、「ビルマ、インド、トルコ、ギリシャ、モンテネグロ、セルビヤ、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、オーストリア、イタリア、スイス、ベルギー、オランダ、デンマーク、ドイツ、スウェーデン、フィンランド、ロシアそして貴国(清国)である」と答えた。
一人が横から「小人国や女人国や孔胴国などに行ったことはないか」と聞いてきた。中佐が笑いながら「孔胴国とは、どういう国か」と聞くと、「胴に孔(あな)があり、富者が外出する時は、棒を胴の孔に貫ぬき、二人の男にかつがせるのだ」と言う。6等級役人が「あなたが行った21ヶ国はおそらく小さな王国であろう。皇帝が自ら万民を治める我が清国のような国はないだろう」と言った。中佐が「中国は確かに大きな国であるが大陸の一部である」と言うと、6級役人が「一部分とはどういうことか」と怒った。中佐が「では少し説明しよう。昔の世界は、貴国を中央にして、イギリス、フランス、ルソン(フィリピン)の他、手長島、足長島、小人国、女人国などの島々が周りにあるとしながらも、それらの島々には行けないものとしていた。今の世界はそうではない。地球という球体の上に60の独立国があり、蒸気船が飛ぶように行き来しており、国として行けないところはない。面積を比べると、ロシアが第一で、英国領が第二、貴国(清国)は第三位である。皇帝が治める国は貴国だけではなく、我が日本、ペルシャ、トルコ、オーストリア、ロシア及び英国王が治めるインドもみな帝国である。」また笑って皆に向かって言う。「いわゆる世界というのもそんなに大きなものではない。宇宙に浮かぶ一個の円い球体であり、宇宙にある数え切れない星の一つにすぎない。そんな地球上の人々はみんな兄弟である。国内・国外という区別も意味がないのである。」集まった人々はみんな虚ろな顔で互いに見つめ合っていた。この駅は、草はあっても麦がなく、人夫を雇って燕麦を一斗買わせ、門に扉がないので人夫と交代で馬を見張ったのである。室内には坑という土を一尺五寸ほど盛った床があり、中は空洞で、端に穴が開いている。そこへ火を燃やした暖かい空気を入れて寒さを防いでいる。床には高梁稈を薄く削って編んだムシロを一枚敷いているだけである。窓には唐紙を張っているが、風雨のために敗れて寒風が入ってくる。だから、寒い夜に窓を開けて暖炉の上に座っているようなもので、頭は凍えるも背中は焦げるほど熱く、唇は乾き、頭がずきずきと痛い。
■庫木爾站(クムルチャン)
3月23日午前8時零下5度。およそ25露里の間は平坦な地形で、一筋の川がうねうねと三つの村を貫いて流れている。道路は雪がなく、非常に騎行しやすい。一つの村に着いた。農夫が大きな荷物を車に積んでいたが、中佐が通り過ぎるのを見て口汚く罵ったばかりでなく木切れを投げてきたので、中佐が鐵鞭で払い除けて応じたところ、農夫は車を棄てて逃げてしまった。一つの山を登っておよそ120mほどの高原に出た。大地が波のようにうねっている。残雪が林の間に見え隠れし、泥濘に馬の脚が没する。途中で何台かの荷馬車とすれ違う。一台につき10数頭の馬が牽いている。中には牛馬とロバを混ぜて使っている車もあるのは、清国内地と同じである。山の名は匡安嶺といい、山上に廟があり、傍に小屋があったのでそこで休憩し、すぐに出発した。山麓の道はぬかるんで進みにくい。道端に停めた荷車のわきに放たれた馬が、雪をかきわけて枯れ草を捜している。先日の蒙古旅行の困難さを思い出し、満州通過の難しさが同じようなものでないことを知って独り笑うのであった。この日の駅車は粗悪で、馬も老いて鈍かったので、中佐より10清里余り遅れてしまった。かなりの時間待ったが荷車は来ない。馬首を返して捜してみると、左の車輪を壊してどうすることもできないという。それで車輪の破片を拾い集めて縄で縛り付け、徐行して坂を下って麓の二站(アルチャン)という駅にたどり着いた。この日は85清里進んだ。二站(アルチャン)は山中の一寒村であり、数戸の民家の右を小川が流れている。
驛舎は壁が落ちて門は傾いている。門の内は左に食料庫があり、右に廏(うまや)がある。食料庫の柱には赤い紙を貼り、「倉内須蓄千歳栗、囤中永存萬年粮(そうないすべからくせんざいのあわをたくわうべし、とんちゅうながくそんすまんねんのりょう)」と大書してあるけれども、倉庫内は荒れ放題で一粒の穀物も無い。廏(うまや)には「槽前多駿馬棚内有良駒(そうぜんにしゅんばおおし、ほうないはりょうくあり」と掲げてあるが、今にも餓死するかと思われる病気の馬が一頭いるだけである。室内には「嚴肅廉明開印大吉」と縁起の良い文字が貼ってるが、ちりやほこりが積もり積もって、その汚さは言い表せないほどである。翌24日は谷間を蛇行して進んだ。地面はやや平坦である。大嶺(マーリン)廟の前で小休止し、午前11時に庫木爾站(クルムチャン)に到着した。二站(アルチャン)から35清里である。日はまだ高いが、喀兒塔兒奚站(カルタルトチャン)まではまだ75清里あり、小興安嶺を越えなければならないので、ここに泊まることにした。ここは人家数戸だけの荒れ果てた寂しい駅である。この日小さな流れを渡るときに柳の芽が赤く膨らんでいるのを見た。柳の芽吹きによってようやく春らしくなってきたことを知った。
■小興安嶺(ショウヒンアンレイ)
3月25日午前8時に出発、少しずつ山の小径を上る。左方の松の枝に籠が一つぶら下がっている。籠の中には一つの首級があり、弁髪が籠のてっぺんに結びつけてある。例のさらし首であろう。この辺りは盗賊の出没が多い証拠でもある。籠には光緒十八年九月十八日と書いてある。日数がかなり経っているため、黒い一塊の物体となっているが、なお腐敗せずその全形を残している。寒さ厳しい気候と乾燥した空気がよくわかる。数町上ると山頂に達した。ここが小興安嶺である。山の北側は黒竜江(アムール川)にそそぐ様々な流れと松花江(スンガリ川)との分水嶺となっている。松花江は満州第一の流れであり、吉林と黒竜江の両省の大河は皆ここに集まって、三姓(サンシン、黒竜江省 依蘭県)で北流して黒竜江に入る。水は深く、流れはゆったりとしている。吉林と齊々哈爾(チチハル)の間及び大河である松花江(黒竜江の支流)に注ぐ所から三姓を経て黒竜江に達するまで汽船を運航することができる。将来いつか必ずや吉林とハバロフスク間で汽船の往来を見るであろう。汽船がこの間を運航することになれば、シベリア鉄道の完成に最も期待を寄せている我が国の交易関係者に大きな影響を及ぼすであろう。これに関係する者は心に留め置かねばならない。山上に廟があり、しばらく休憩してすぐに出発した。風と雪が入り交じって視界を遮る。次第に寒くなってくる感じがする。道はそんなに急峻ではない。ようやく山を下りて平坦なところに出ると、風も雪もようやく止んで、暖かな日差しさえ出てきた。山の北斜面に樹木がある。山の南斜面は草だけである。午後3時半に喀兒塔兒奚站(カルメルチチヤン)に着く。ここには駐屯兵がいるので、雲騎尉祥雲(うんきゐしやうゝん)が案内して役所に行く。数人の役人が小さな部屋にいて、そのうちの一人がこう言った。
「以前、あなたの国の一人の中尉がこの地を通ったことがある。我が清国の役所は兵を出して彼を護送したのだ。中尉は支那語がわからなかったようだ」と。駅舎に入ると、年寄りから子どもまで大勢の人が中佐をひと目見ようと集まって来た。外套や帽子、短銃や勲章など目に見る物すべてを触り、その値段を聞こうとする。煩わしいこと限りなく、遂には軍刀を見せろと言い出した。そこで中佐はやにわに軍刀を抜き放ち群衆に見せたところ、キラリと光る刃の輝きに人々は恐ろしくなって震え上がったのである。
■墨爾根(モルゲン)
3月26日午前8時に出発。気温は零下3度である。愛琿から送ってきてくれた雲騎尉の祥雲とはここで別れた。地形は丘陵が起伏しており、しばらく進んでようやく開けたところに出た。樹木の全くない山野を35清里進んだところで三つの集落があった。しばらく休憩して再び30清里進み、一村を過ぎたところで午後3時半に科落落站(ココルチャン)で泊まった。この日、喀兒塔兒奚站(カルメルチチヤン)を出発するとすぐに3騎が追いついてきて、後をついてきたけれども、それが誰かは分からなかった。道中の半ばで休憩したときに、彼らも同じように休憩したので、それが護衛のための士官と二人の騎兵であることが分かった。士官は六品委員で官帽を被り、平服姿の兵卒は刀も銃も持たず、馬の鞍に酒の入った瓶をぶら下げ、馬を下りるたびにコーリャン酒を飲んで、酒気がぷんぷん匂うありさまである。満州地方の生活習慣はそのまますべて清国全体にあてはまる。同時に、満州固有の言語もまた自然に消滅して、いたるところ支那語ばかりであり、山間部の民がわずかに満州語を使うだけである。あの一仕官二騎兵は僻地の満州人で支那語を理解せず、兵の一人が数語の支那語を口にするのみである。中佐が満州を通り過ぎる間に満州語を話すのを聞いたのはこの三人だけであったとのことである。途中で士官は退屈であったのか、自分の官帽を兵の帽子と取り替え、官帽を被って得意げな兵の後からついていった。駅舎に入ると満州人がたくさん集まって来て、士官と兵士の三人が支那語を理解しないことを蔑み、昔はみんな韃靼(タタール)人であったことを忘れて、彼らを韃子と嘲って収まらない。このように満州人のほとんどはすでに支那化しているのである。
韃靼騎兵の威光は衰退して地に落ちたというのも肯ける。27日は午前8時15分に出発、目に入る山々は次第に低くなり、平野は隅々まですべて見渡せる、この日はよく晴れてうららかで列氏1度となった。零度以下の寒空に立つこと178日目にして、この日初めて温かい気温に巡り合った。それゆえ、道路の残雪はやっと消え、僅かに草の間に点々と見えるだけである。40清里進んだところの小さな村で休憩し、またもう一つの村を過ぎて小さな坂を上ると、地形は遙か彼方まで続く大平原である。西南遥かに市街地が見える。これがモルゲンである。遠くの道の右側に兵営が見える。電柱は道の左側に沿って立っており、一本ずつ「墨何端」と書いてある。愛琿近郊では「愛何号」と書いてあったのと同じようなものである。おそらく、光緒13年即ち明治20年に、満州電線を架設するにあたって、愛琿・モルゲン・チチハル・新城・吉林・ニングタ・琿春の7区に分けて、各区毎に同時に起工したのであろう。午後5時にモルゲン城外の駅舎に入り、人を両替所に遣って銀を交換した。愛琿からモルゲンに至る375清里即ち230㎞は実に我が国の57里半であり、一日平均9里半以上、6日間で到着することができた。ちょうど、チチハルの将軍が鐵山堡の閲兵を終わって帰路この地を通るとのことで、接待の準備で慌ただしい様子であった。将軍の一行は隨員と警護兵と従僕などざっと300人以上だという。*墨爾根(モルゲン)=現在の嫩江県(のんこうけん)
■墨爾根城(モルゲンじやう)
墨爾根(モルゲン)は大小興安嶺の入口にあって、辺境要衝の地である。副都統(副長官)一人を置いて八旗(軍)を置き、若干の辺境警備軍が駐屯している。元々通商の重要地点ではなかったので、貿易は微々たるもので、町というよりも一村落のようである。
電線がここを通っているが、電報局の施設すら無い。城(町)は丸太を縦に立てて壁としている。兵舎は垣根で区切られ、正面の門は開いており、四隅に見張り所がある。すべて清国方式である。西方の大江(嫩江=ユーラシア大陸・中国東北部を流れる川でアムール川水系に属する松花江最長の支流)の向こう遥かに一村が見える。これが臣達克圖(チエンタクツー)である。臣達克圖(チエンタクツー)から大興安嶺を越えるとロシア領のスタロツロハイトに達する。その道程は約千清里あり、新鮮な草はあるが駅舎がなく、たくさんの牛馬や駱駝を使うことができないので、踏破することができない。舊粗魯海圖(スタロツロハイト)はチチハルから大興安嶺を越えて呼倫貝爾(フーロンバイル、現フルンボイル)に達する駅路が通っている地で、阿爾古訥(アルクヌ)河(か)(アルク河)の左岸にあってロシアの国境警備隊が置かれている。呼倫貝爾(フーロンバイル)はロシア領に面する一方、蒙古を支配する辺境の要所であり、副都統(副長官)を置いて八旗(軍)を駐屯させ、近年は練軍(清朝正規軍)の歩兵と騎兵を置いている。呼倫貝爾(フーロンバイル)からチチハルまではおよそ800清里で17つの宿駅があるという。
■烟毒可懼(えんどくおそるべし)
3月28日、広原と丘陵地帯を行く。気候はようやく暖かくなり、午後には3度になった。
この日野火があった。折しも、暴風が起こって火勢が野を覆い、黒煙が空を満たして瞬く間に数里の間に広がり、近づくことすらできない。実に壮観である。70清里進んで、午後4時に宜拉哈站(イヲハチャン)に着いた。駅舎はチチハルの将軍を迎えるために床を掃き清め壁を修理するなどしており、非常に騒がしい。よって、一民家に泊まった。家の入口には「太公在此」の四文字が掲げられている。これは私塾であり、10人ほどの幼児が昼食時以外はずっと先生の側にいて、二つの机を囲んで書物を読み、文字を習っている。机は長さが6尺、幅が2尺、高さ1尺ほどで、読む書物は認字、三字経、千字文、大学、中庸の類であり、かつてのわが国の寺子屋そのままである。中佐が部屋に入ると、老先生が子どもたちを出て行かせて中佐に椅子を勧め、顎髭を撫でながら昔話をするのであった。しばしば奇妙な理論があった。この日、六品委員と二人の騎兵は興安城に帰り、モルゲン副長官命令によって一人の学生が中佐をチチハルまで同行した。この夜、チチハルで一緒に泊まった。学生は非常にアヘンを好む。すでに習慣となって年々吸う量が増加し、今や持病となって止めることが出来なくなっている。毎日喫煙の時刻になり、訳あって吸うことが出来なくなると頭がずきずきと痛み胸が刺すように痛んで、悶え苦しむこと甚だしい。ひどいときには手足が麻痺して倒れ込み、意識がなくなることがある。ゆえに、人間がひとたびアヘン中毒になると、きわめて忙しくてもまた貧しくても、やはり命がけで喫煙しないではおれなくなり、財産を失い、家を亡ぼし、悪事を行い、盗みをする。すべてアヘンのもたらす害毒である。ああ、常識では考えられないのがアヘンである。遊び半分であっても、ひとたびこれを喫煙すれば一生止めることが出来なくなる。学生は「自分もアヘンの犠牲となって一生を終わるだけだ」と嘆きながら箱を開いてキセルを出し、寝転んで煙を吸うこと数回、爽やかに談笑を始めた。晩餐に誘って食事し、しばらくしてまた喫煙し、午後10時にようやく喫煙道具を拭いて箱に収めると、そのまま寝てしまった。彼は気持ちよく寝ているが、中佐はアヘンの煙がたちこめているために頭がずきずき痛んで一晩中眠ることができなかった。ああ、彼は煙毒が身を滅ぼすことを知りながらそれを止めることができないのだ。石を抱いて川の深みに身を投げるのと同じである。恐ろしいことではないか。 *宜拉哈站(イヲハチャン)▼
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