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第3章:欧亜境界
愛馬凱旋との悲しい別れをした福島中佐は、新馬烏拉(ウラル)とともに東へ旅を続けます。ウラル山脈を越えればアジアです。しかし、旅はまだ半ばにも至っていません。この先どのような試練が待ち受けているのでしょう。

  • ■田園荒廃

    カザンの近くは3年間大飢饉の中心だったので、周囲一面荒涼として生気がほとんどなく、目に触れ心に感じるもの全てがむごたらしく痛ましい。中佐が着いた所では辛うじて鶏卵と黒パンを手に入れることができただけで、肉類はもちろん見ることも出来ず、時には馬に食わせる烏麦さえ手に入らず、パン粉を与えたこともあった。馬も最初の頃こそ嫌がっていたけれど、腹が減っては餌の選り好みもかなわず、しまいには喜んで食っていた。地方官は各村落に教育所を設置して食べ物を与え、貧しい人々の救済に努めているが、それでもまだ道路には餓死者があり、多くの人が飢えて青白い顔をしている。それもそのはず、いつもは黒パン1ポンドが60コペイカなのに、飢饉のために物価が高騰して、前年は1ルーブル60コペイカ、氷が溶けて水運が可能になってもなお1ルーブル30コペイカを下らない。そうでなくても貧しいロシアの民はこの食料品の高騰に卒倒しそうになるのも無理はなく、その妻子を連れて道端で食べ物を乞うのもまた無理のないことである。

    ある日中佐が小さな村の駅舎に泊まっていたとき、10ルーブルの紙幣を人に渡して秣を買わしたとき、彼が戻ってきて釣り銭を出しながら、1ルーブルは駅舎の主人に渡したと言う。これは宿代の前払いであるようだ。翌日中佐が出発しようとして、宿の主人に砂糖と黒パンの値段を聞くと、既に受け取っておきながら再び欲しくなったのだろうか、1ルーブルだと言う。さすがに顔を赤らめ小声である。中佐が1ルーブルを渡したところ、二度目の代金を受け取りつつも昨日の金のことは知らん顔である。また別の日、駅舎にいたところ、こざっぱりした服装の老人がやってきて、お金をくれと言う。その様子は貧民とも見えないので妙だと思い、巡査に彼はどういう人だと聞くと、物乞いですよ、お金さえ与えたら立ち去るでしょう、と笑いながら言って、追い出そうともしない。中佐が20コペイカを与えたところ、恥ずかしいとも思わない顔で喜んで立ち去った。ある日、駅舎の主人に支払うために60コペイカを机の上に置いたところ、その主人は支払わずに立ち去ろうとしている人のを無理やり奪い取るが如くに、飛んできてそのお金を取り、礼を言うことも忘れて立ち去った。そのほか、物乞いなどにしつこくせびられることも数えきれないほどあった。彼等の恥を知らない行動は飢饉の結果だったのかもしれない。

    ■給茶器具

    ロシア人はとてもお茶が好きで、朝は黒パンをかじりながら大きなコップで七~八杯から十数杯もお茶を飲んで茶腹をつくるばかりでなく、昼食や夕食も量りきれないほどお茶を飲む。貧しい者は砂糖なしで、まるで牛が水を飲むようにがぶ飲みするのが習慣である。だから、中佐が通り過ぎる所では、どんな小さな村でどんな貧しい家であろうとも、サモワールという湯沸かし器を室内で見ないことはなかった。サモワールは大抵真鍮で作られ、紅茶を煮るにはこの器で沸かした湯でなければ味がないとされている。ちょうど我が国の火鉢と鉄瓶とを一つにしたようなものであり、ロシア人の必需品である。それ故、三年間の大飢饉の結果人々は全て貧しくなり、家に余分の物などなく全ての衣類や家具さえも売り払って飢えを凌ぐ有様であったが、彼等はたとえ身の皮を剥いで売るようなことがあってもこのサモワールは依然として室内にあり、どんなに堪えがたいほど不潔な貧しい家であろうとも、この湯沸器だけは磨き立てられて真鍮の輝きを放っているのである。海路で黒海のオデッサに送られ、あるいは駱駝の背に載せられてゴビの大沙漠を渡り、シベリアの原野に入って、ロシア全土におびただしい量が輸入されるあの支那製の磚茶紅茶は、全てこのサモワールによって消費されるとのこと。なんとまあ、貴重な品であることよ。

    ■交通要衝

    ヴォルガの川幅はカザン附近では非常に広くなり、渡河するためには汽船を用いる。カザン市は左岸に位置している。中佐が川を渡って市内に入ると、一人の警部が旅館まで案内してくれた。旅館はドイツ人が建てたもので、その快適さ美しさはモスクワ以東でこれまでに経験しなかったものである。中佐はこの地に4日滞在し、その間ドイツ語を話せる一人の警部補が接待係としていつも中佐に付き従った。カザンはカザン州の首府であり、モスクワ以東で最大の都会である。カマ川を東北に溯ればペルムに通じ、ヴォルガ河を西北に遡ればツウエルに達し、ヴォルガ河を東南に下るとカスピ海西岸のアストラカンに至って、コーカサス・ペルシャ・中央アジアと汽船で直接つながるという、実に交通の要衝にあり、交易が盛んに行われている。市内には劇場や公園・モデル工場・大学・博物館・士官学校・各種病院などがある。工業もまた盛んで、製造所が特に多く、その中でも特筆すべきは石鹸工場である。これは1855年に創設され、現在では1500人の職工を使って、毎年の生産量は30万ポンド(1ポンド約40斤)に上っている。ロシア国内はもちろん、ペルシャ・コーカサス・中央アジアの各地に膨大な量を輸出しているが、その製造原料はカザフスタン国境に近いオーレンブルク州及びシベリア地方で採取している。製造する石鹸の中でもグリセリン入りの石鹸は最も有名で販売地域が極めて広いので、工場内に特にグリセリン製造所を設置して大量に製造し、遂には石鹸製造のみならず薬品として広範囲に販売している。中佐の聞くところによると、この工場と契約してグリセリンを輸入している日本の商人もいるようである。

    ■回教寺院

    中佐がカザンに着いてみると、目に触れるものが少しこれまでとは異なり、ヨーロッパともつかずアジアともつかず、欧亜が相半ばする地を見るような心地になった。まず目にとまったのは、韃靼(タタール)人であった。彼等の祖先は蒙古帝国の黄金期にはチンギスハンに服従してロシアに侵入して戦い、全戦全勝の勢いで遂にはヴォルガ河畔一帯を占領して国を建て部落をつくった。いわゆるカザン汗である。それから時代は移り変わっておよそ800年後、蒙古は衰亡して山河は主を代えたが、その子孫は今なお以前の土地に生活し、カザン市の一部分は韃靼人の住居地であるという。これによって往時の隆盛を見ることができよう。彼等の顔だちは他の黄色人種と同じであるが、ただ体格は非常に大きい。衣服は筒袖で、胸には一条のボタンを付けている。服の長さは膝を掩うほど長く、頭にはトルコ帽に似た縁なしの毛の帽子を被っている。ロシア人と共に住むようになってから数世紀が経つが、互いに結婚して混じり合うことがない。だから中にはロシア語が通じる者もいるにはいるが、彼等の全ては今なおタタール語を話している。婦人の服装は、色のあでやかな布を使った非常に奇抜なものであり、袖口はとても広く裾は開いていて、更に様々な色の薄衣を頭から被っているので、髪の形までは見えない。韃靼人は皆回教を信じ、数多くの寺院を建てている。市内で半月型をした丸屋根の塔を見れば、それは皆回教寺院であることは一目瞭然である。


    ■昼宿夜行

    この頃には気温がぐんぐん上昇し、昼間は列氏25~30度(摂氏30度強~38度弱)にまで上って、焼けつくように厳しい暑さである。炎天酷暑の中を騎行していると、馬もたちまち息が苦しくなって汗が滝のように流れ落ち、数里も進まないうちに疲労困憊する。その上、昼間は蚊・虻・蜂や馬蝿などの虫が群がってきて馬を悩まし苦しめる。しかも、あの牧場にも似た道路で草を食んでいる放牧の馬群を見るやいなや、狂ったように追い回すのでよけいに疲れ、食欲も減じて日毎に疲れ果てていく。中佐もまた、黒ラシャの冬服の上に夏外套を重ね着して炎天に曝されているので、酷暑に耐えられなく、呼吸は苦しくなってしばしば吐き気をもよおす。ほとんど熱中症になるかと思われたので、カザンから東は昼間は休憩して夜間に騎行することに決した。夜はやや涼しいのみならず、あの毒虫も少なく、路上の放牧馬もどこかへ行ってしまうので、騎行するにはうってつけだったのである。

    ■単騎夜行

    中佐がカザンを出発したのは6月13日の午後8時15分、この日が夜行の始まりとなった。この日の正午には気温が列氏30度(摂氏38度弱)に上った。この月の28日にはペルムに着いた。カザンからペルムまで618㎞(154里)で15日間を要したけれど、その間逗留した2日間を除き、騎行は実に13日間で一晩に平均約12里進んだ。これを、ニヂニノブゴロドからカザンに至る110里に10日間を要したことと比較すると、1日にだいたい1里多く進んだことになる。これが夜行の利点であり、夜は馬も涼しいだけでなく周囲が静かなのでわずかの物音にも驚き易く、足並が非常に速くなる。この154里の間は鬱蒼とした大森林であり、間にマルムヅユ、オハンスクの二つの小さな町があるだけで、その他には、物寂しい村が森林の中に点在するだけである。中佐は、この辺の森には狼が多く、飢饉のために盗賊の出没が相次いでいると聞いていたが、深夜単騎で森林を突っ切って行きながら、樹林の間に見える夜空に星々が煌めいているのを見ただけで、狼や盗賊の影を見ることは全くなかった。カザンから東は巡査1名が駅毎に交代で随伴して中佐を見送ったが、ヴヤツカ州に入ってからは村も少なく人家もたいへん疎らで、警察官が配置されている所も少ないので、巡査に代わったのは村の長たちであった。彼等は飢饉の中でかろうじて生き残った痩せた馬に、鞍代わりの莚(むしろ)などを敷いてまたがり、中佐を次駅まで案内したのだった。

    ■白夜騎行

    この頃は北国で昼間の時間がいちばん長い季節である。午前3時には太陽が昇り、午後9時にならないと日没にならない。昼はほとんど18時間あり、夜は6時間ほどに過ぎない。夜とはいうものの、午後9時過ぎでも空はまだ白く、午前1時過ぎにはもう明かりなしで文字が読めるほどで、暗闇となるのはわずか1時間ほどだけである。さて、夜は虫もいないだろうと思っていたのだが、森林の中では夜でも蚊・虻・蜂・蝿は去らず、人馬を襲撃して煩わしさこの上もないので、いつも折り取った樹の枝で追い払いつつ進んで行った。12時から午前1時頃までの草木も眠るという深夜には、さすがに虫も眠るのだろうか全く姿を見せない。この1時間だけが人も馬も一息ついて気楽に進めるのであった。けれど、日の出とともにまたどこからか無数に飛び出してくる。これにとても苦しんだのは馬である。夜はいつも8時か9時頃に出発して、朝は3時か4時頃に宿駅に着き、ようやく馬を休めてから中佐も一眠りしようとするのだが、蒸し暑さだけでなく、毒虫が顔に群がり肌を刺し、おまけに周りが騒がしいので、疲労の頂点で無意識に眠りに落ちる以外に安眠することはできない。いつも不眠がちで疲れ切っているので、雨や曇りなど天気の都合によっては夜行を止め、朝の3時から5時頃の3時間を騎行して、日中8時間ほどは休み、また夕方3時間ほど騎行して、夜中の3~4時間ばかりまどろんだだけのこともあった。

    ■食糧不足

    カザン以東は3年間続いた大飢饉のために住民は痩せ、村は荒れて、マルムヅユとオハンスクの町を除く他のいたる所の侘びしい宿駅では肉類を求めることは難しかった。人間のための食料が欠乏しているだけでなく、馬に食わせる草さえ手に入れるのが難しいこともあった。時には巡査に頼んでようやく秣を買ったけれど、平年は1ポンド(40斤)15~20コペイカでどんなに高くても30コペイカを超えることはないのに、この時は1ポンド1ルーブル以下では買えなかった。物価がいかに高騰していたかがこれでお分かりいただけるだろう。

    農夫たちも飢えたら何をするかわからない。あるとき、馬を繋いで草を与え、しばらくの間離れた場所で休憩してから戻ってみれば草がない。食い尽くすほどの時間でもないのに、高価な草が既になくなったのを変だなと思って番人に尋ねると、馬が食ってしまったのだと答える。また、あるとき馬に烏麦を与え、しばらくそこを離れてから戻ってみると、秣桶は倒れて烏麦は一粒も残っていない。再び烏麦を入れさせて、同じようにしばらくして戻ってみると、桶はまたもや倒され、麦はなくなっていた。中佐がかつてこの時のことをある宿の主人に話したところ、主人が言うには、「それはあなたの責任である。最近は油断がならず、馬に草や麦を与える時には、必ず厩の施錠を確実にして人が出入り出来ないようにしなかったなら、いくらたくさんの麦を与えるとも馬の口には入らないだろう」とのことだった。憐れなのは凶作で飢えた人々である。

    ■森林火災

    カザンからペルムまでの154里の間で町と言えるのはマルムヅユとオハンスクだけである。中佐がマルムヅユの町に入ると、地方裁判官などが待ち受けていて酒や肉料理で歓待してくれた。おかげで、玉子と黒パンだけで過ごしてきたこの数日間の粗食を取り戻すことが出来た。セリツウは森林の中の小さな宿場である。中佐が到着すると、郡長が出迎え、非常に歓迎してくれた。村の傍に在る湖に小舟を浮かべて青草の茂る岸辺を漕ぎ廻り、新緑を映し出した湖面にさざ波をたてながら涼を取った。そのあと、郡長の自宅に招かれ、昼食を御馳走になった。そのとき、大森林の西方遙か彼方に一条の火柱が立ち上るのが見えた。真っ赤な炎が空を焦がし、大きな家が燃えているように見えたので、この火事はどこの町ですかと郡長に尋ねると、彼は、「人家の火災ではありません。この辺でよくある山火事です。森で一度火災が起こると数日はおろか数十日間も続いて消えないこともあるのです。」と答えた。それにしても、凄まじい規模の山火事だ。

    ■乗馬凶暴

    こうしてボリセソスノブスカヤという所に着いて、駅舎に入って長椅子の上に横になったと思ったら、虱の来襲をも忘れて熟睡していた。ふと目覚めて時計を見ると、もう午前7時になっていたのに驚き、馬に水をやり麦を与えて再び眠ったのだが、夢の中で空腹を覚えて目が覚めた頃には早くも午後3時だった。中佐は虱の痒さも忘れるほど疲れて7~8時間も熟睡していた。この数日間の夜間騎行でそれほど疲れ果てていたのである。やがて茶を飲みパンを食ってはじめて気分が爽快となり、しばらく休憩した後、再び馬に跨がって出発したのは午後7時である。

    翌朝未明に宿駅近くまで来ると騎馬巡査が迎えに来たので、ここまで同行して案内してくれた村長に酒代を渡して帰そうと思い、馬を下りて村はずれの一本の樹に乗馬のウラルを繋ごうとしたのだが、ウラルは一声嘶いて小さな溝を跳び越え、村長が乗った牝馬に飛びかかろうとする。そうはさせまいと中佐は手綱を引いたのだが、馬は中佐を引き倒して両手に傷を負わし、そのまま牝馬に迫って狂ったように跳びかかって暴れ回る。村人がたくさん集まってきて、やっとのことで引き離したのであった。この辺の村々の出入り口には木戸があり、木戸毎に門番が居て通行人がある毎に入口を開閉する。これは家畜を放牧しているので、村外に逃がして畑の作物を荒らさせないようにするためである。中佐が村の出入り口の木戸口に来たとき、幸いにして番人がいるときは馬上から声をかけて入口を開かせることができたのだが、番人がいないときは馬を下りて自ら木戸口を開かなければならなかった。ところで、木戸の辺りにはいつも牛や馬がたくさんいて、ウラルは馬さえ見れば嘶いて狂ったように激しく暴れるのであった。こういうわけで、木戸のある毎に中佐は馬に引きずり倒されて、煩わしいことこの上もなかったのである。

    ■大馬輪船

    オハンスクはカマ川の右岸に臨む小さな町で、ペルムからわずかに68露里のところにあり、人口は1,600人に過ぎない。街路には草が茫々と生い茂り、牛や羊を放牧しているから、どこまでが道でどこからが牧場なのかも分からない。市と名付けられた地ですらこのような有様であるから、村々の様子は想像がつくだろう。中佐が到着するや、この地の裁判官や歩兵大佐などが、中佐をこの上もなく丁寧にもてなした。大佐は特にペルムの軍営に電報を打って中佐の到着を報告し、中佐のために便宜を図った。この日は曇り空で雨も降ったにもかかわらず、気温は列氏24度(摂氏30度)に上って蒸し暑かった。翌6月26日、ペルムをめざしてオハンスク市を発ち、市外のカマ川の岸まで来ると、渡し場があった。馬輪船渡船は通常のものとは異なり、幅2間(3.6m)長さ7間(約13m)以上もある。人と馬を共に載せるためにたいそう大きいこの船には、船尾に水車があって馬を使ってその水車を回転させて船を進めるのだが、なかなかの速さである。この種の船を何と言うのか分からないが、中佐は馬輪船と名付けたらしい。火輪船というのは見たことがあるけれど、馬輪船とは非常に珍しいものである。カマ川の幅は大抵1,000mないし2,000m、岸は遠くにあり水深は深く、さざ波の立つ川面がどこまでも広がっている。

    ■両国親善

    カマ川を渡って騎行すること二日、6月28日にペルムに入った。ペルム市から12露里ほど手前に一人の歩兵大尉が馬で迎えにやってきて、中佐に言った。「オハンスクの司令官から電報があってあなたが来られることを知り、ペルム駐屯の将校一同が市外に集合してあなたの到着をお待ちしています」。中佐がこの大尉と馬を並べて少しばかり行ったところに、馬車に乗った一人の参謀大尉と馬に乗った一人の士官・二人の夫人がやはり中佐を出迎えるためにやってきたのに出会った。二人の夫人はどちらもフランス語を理解したので、思いがけず旅の途中で美人と談笑しながら馬を進めた。市のはずれに到着すると、一隊の軍楽隊が一斉に我が国の国歌である「君が代」を演奏して中佐の健康を祝福した。快く響く楽器の音色の中で中佐は歓迎の将校と手を握って挨拶し、再び馬を並べて進んで行く。この日、道路には見物の人たちが垣をめぐらしたように集まり、みんな帽子を脱いで中佐に敬意を表した。中佐は導かれて予備歩兵大隊の野営地に着くと、大隊の将校はそれぞれその夫人や令嬢と一緒に中佐を会食会場に案内し、盛大な晩餐会を催した。軍楽隊の合図で一斉に杯をあげて中佐の健康を祝し、日露両国のなごやかで友好的な気分がその場を包み込んだ。食後、数名の貴婦人は軽やかにドレスの裾をひるがえしながらデザートを用意し、中佐を囲んで春のような明るい雰囲気の中で談笑した。特に大隊長は令嬢に古代の衣裳を着せて見せ、中佐の旅情を慰めたのであった。

    ■入浴賭博

    ペルムにはペルム州庁舎があり、カマ川の左岸に臨んで市街が広がり、船舶の往来が頻繁である。ニヂニノブゴロドまで往復する郵便や貨物は、ウラルを越えてシュメンに通じる鉄道とここで連絡しているので交通量が多く、ウラル山系の小都市となっている。中佐はカザンを出発して以来15日間入浴をしていなかったので、市内のホテルに行ってひと風呂浴びようと思い、市外の野営地を出ようとしたところ、少しばかりフランス語を解する一人の士官が、どこへ行かれるのかと問う。中佐もフランス語でバンのためにホテルに行こうと思うと答えたところ、それではお送りいたしましょうと、その士官は馬車を用意してホテルまで送ってくれ、そこで別れた。中佐は久し振りに入浴して、その夜は快適なそのホテルに一泊した。翌日、野営地に戻ってみると士官たちが集まってきて、昨晩はいかがでしたか、さぞかし面白かったことでしょうなどと、口々に問いかけてくる。中佐が何気なく、気持ちよく入浴して一泊しただけですよと答えたところ、人々はなおも、それでどのような状況だったのですかと、質問を止めない。状況はと聞かれても風呂に入っただけだからお話するほどのこともありませんと言うと、人々は訝しそうに中佐の顔をじっと見つめているので、今度は中佐が妙に思って、どうしてそのようにお聞きになるのかと問い返すと、昨夜あなたが賭博のためにホテルに行かれたと聞いたからこのようにお尋ねしているのですと言う。これで中佐は初めて言葉の上の誤解があったことを知った。ちがいますよ、バンのためにホテルに行くと言ったのを、バンクのためと聞き違いされたのだと言って笑うと、人々も、そうか聞き違いだったのか、あなたをホテルにお送りしたあの士官が帰ってきて言うには、福島中佐はバンクのために旅館に行ったと語ったので、言葉もろくろく分からぬ者が、旅の途中で博打をするとは面白い男だよと、みんなで言っていたのですが、本当に言葉の聞き違いだったのですねと、最後には一同大笑いをしたのだった。フランス語ではバンとは風呂のことでバンクとは賭博のことであるが、バンクのクの音は強く響かないので、士官はバンをバンクと聞き違い、風呂を賭博と誤解したのであった、旅にはありがちの笑い話のようだ。

    ■遠雲紅色

    中佐はペルムに3日滞在し、今まさに出発しようとしている。歩兵大隊長の令嬢は、大隊の名で紀念章を贈った。旅行客がペルムからシュメンに行くには二つの方法がある。一つは鉄道であり、もう一つは宿駅伝いに旧道を通る方法である。鉄道の延長は771露里で、旧道は680露里である。中佐は7月2日午前8時をもって宿駅伝いの旧道によって出発、42露里進んで午後3時にヤンチェプスカヤという小さな宿駅に着いた。この宿場は民家の半ばがタタール人であり、半月形の塔が聳える回教寺院も建っている。衣服も言葉もロシア人とは全く異なる。中佐はすでにペルムを出て、もうウラル山中にいる。見渡す限り高い山々が幾重にも重なり、大きな丘は起伏して続き、鬱蒼と茂った樹林の中に村々が点々と連なっている。道路にはかつて並木だった頃の名残があり、往時の通行量を想像できるが、今ではこの道を利用する旅人は稀で、道は頻繁に上り下りして波のようにうねっており、行けども行けども高く上ったことを感じない。ウラル山中に入ってからウラルを知らないとさえ言える。この日は空が曇って気温は涼しく、騎行はしやすかった。

    その翌3日は午前8時に出発した。雷雨があり、雨が止んだ後は初めて夏を忘れるほど涼しくなった。丘陵は起伏し、6露里も上り下りが続く。森林を抜ければ視界が開け、あまりの風景の美しさにずぶ濡れになっているのも忘れ、詩を吟じながら馬を進めた。ヤンチエプスカヤ村から45露里のクングール市近くに来たとき、2頭の駿馬を繋いだ馬車で迎えに来た人に出会った。ペルムの憲兵大佐シロコフ氏とクングール市の豪商ドビニン市の二人である。シロコフ氏は、中佐を送ってペルムを出発してから先回りしてクングールに着き、ドビニン氏を誘って中佐を迎えに引き返してきたのである。中佐は案内されてクングール市に入り、ドビニン氏の家に宿を借りた。ドビニン氏はクングールの豪商で、工場を所有して年間20万ルーブル以上の利益を上げている。家はシルワ川に臨んだ丘の上に建てられた赤瓦の大豪邸である。望楼に上って四方を見渡せば、家々の白壁と赤瓦が夕日に照らされて川面に映り、遠くの雲は紅色に輝いて近くの草木は鮮やかに青く、森や林が織りなすシルエットの起伏と川の曲折とが絵のように一望に見渡せる。ニヂニノブゴロドから東でいちばん美しい風景である。庭の中に、子熊が3頭、狼の子が1頭、子犬4頭がいて、草の上に放してある。彼等は仲良く遊び、互いに害することがない。熊と狼とは近くの森の中で捕らえたのだという。この夜の饗応は盛大であった。

    ■素人芝居

    クングールはウラル山中のにぎやかな町である。人口は17,000余り、工業が最も盛んで工場が多く、市内に入って先ず目に付くのはその豪華な光景であり、1,700万ルーブルの資産を有する豪商が二人いるという。中佐はドビニン氏の晩餐に招かれ、食後馬車に乗って公園を見て回った。園内の山水は手入れが行き届いて趣がある。庭の片隅に演奏家がいて常時音楽を奏でている。続いてクラブに行った。この日はクラブの会員が集まって素人芝居を催す日だったので、中佐も会場に入って観劇した。ふだん舞踏場としている所を舞台に充てているのでそんなに広くはなく、きれいに並べられた椅子のほとんどは観客で埋め尽くされている。舞台は二幕である。うら若い一人の美女が登場する。この美人を恋い慕う老人と少年がいる。二人は親子である。父は当然妻があり、恋敵である男の子の外に一人の娘さえいるが、年齢を忘れてこの美人を恋い慕っている。その息子もまた負けず劣らずこの美女に愛情を注ぐのだが、彼女は少年を愛することなく、妻子ある老人と契りを結んで互いに深く愛し合っていた。こちらに濃くあればあちらが薄くなるのは当然のことで、男と妻の中は疎くなっていく。男の妻は娘を連れてあの情婦を訪ね、妻も子もいる人なのであきらめて関係を切って下さいと切々と頼んだが、かの美人は男女の関係ばかりは理屈で責められても困りますと承知しない。妻と娘が泣く泣く帰った後、入れ違いにやってきたのはあの少年である。いろいろと口説き迫っても女が心を動かさないのに腹を立て、隠し持った短銃を取り出して一発撃ったところ、硝煙の下で女は息絶えたのであった。これで一幕。次の幕が開いて、妻と娘は何かを話しながら泣いている。そこへ巡査があの女を殺した少年を連れて登場し、この度、女を殺した大罪人は裁判所で終身刑としてシベリアに流されるとの宣告があって、即刻護送されるべきものだがお上のお慈悲で30分の猶予を与えられたので、親子兄弟で名残を惜しめと言う。あの少年は母や娘と抱き合って離別の涙にむせび、手に手を取って別れを惜しんでいるちょうどその時、発車を告げるラッパの音が響き、巡査は時刻だぞと少年を引き連れて行き、それを見送る母親は突然卒倒する、というところで閉幕。いかにもシベリアに近いウラル山中らしい脚本である。

    ■山中不眠

    7月4日、クングールを出発し、この夜はアルチェブスカヤの駅に泊まった。駅舎の主人はかつてセミパラチンスクの行政区に奉職し、蒙古のホブド附近を旅行したことがあるという。時間の経つのも忘れて互いに旅行中の話などして、馬に餌を与えるなどして夜中の2時頃に眠ろうとしたところ、主人は親切にも長椅子の上に蒲団などを敷いてくれた。それで、さあ眠ろうとしたのだが、虱がたくさんいてあちこちを刺すので、何度か明かりを点けて虱を捕まえながら夜を明かし、明け方になって疲労の余りようやく一眠りしたと思ったらもう午前7時ですよと呼び起こされて出発するような有様であった。中佐が虱に責められるのは毎夜のことで珍しいことではないけれど、とりわけクングールを発って3日目、つまり7月6日にクレノブスカヤ駅に泊まった夜などは、ほとんど明け方まで虱との戦いであった。この夜は駅舎が非常にむさ苦しいので虱が多いことは覚悟していたのだが、駅舎の主人は親切にも床の上を掃除して、虫除けに青草がよいと言って、外から青草を取ってきて床の上に敷き、その上に一枚の毛布を敷いて寝床を作ってくれた。だが、血に飢えた虱は青草の城壁をものともせず次々に攻め寄せてくるので、全身腫れ上がるほどにさされてたじたじとなった。そこへ、青草の中の虫さえ虱と一緒になって攻め寄せ、手足や首筋などいたるところを刺すので、この夜は中佐は痒さと虫を捕るのとで一晩中眠ることができなかった。夜は虱などの虫、昼間は虻や蜂が攻め寄せ、ウラル山中は特に毒虫が多く、荷車を牽く弱い馬などはこの山中で虻のために刺し殺されることもある。馬蜂にいたってはその毒が最もきつくこの山に最も多い。中佐もある日馬蜂に刺されたのだが、その毒が背中に回って一晩発熱したことがあった。馬も大変なことがわかる。だから、余裕のある旅行者は、虫を避けるために帽子を被り、その上から薄絹の網で顔を覆うそうだ。

    ■鉱山技師

    ウラル山中をずっと行き、7月8日に山頂近くまで来て、道端の畑を囲った木柵に馬を繋いで休んでいた。森林の中には虫が多いけれど、畑などには少なくて、馬を休めるのにちょうど良いからである。その時、前方に車輪の音が聞こえ、間もなく二輪馬車がやってきた。中に4人の紳士が乗っていて、中佐を見て車を下りてそれぞれの名刺を出して軽く一礼し、あなたは日本の福島少佐でしょうか、と言った。中佐がそうですと答えると、4人は、前々からあなたの壮大な計画を聞いて尊敬の念を禁ずることが出来ませんでした、と言って中佐の健康なことを喜んだ。4人の中にルイベラタンという人がいた。彼は中佐に、自分はウラル山中の白銅鉱を調査に来た鉱山技師だと自己紹介し、ふだんはニューカレドニアの白銅鉱山で仕事していること、そこではたくさんの日本人坑夫が働いていること、以前その鉱山で日本人を虐待しているとの噂が流れて日本海軍の軍艦が実地調査にカレドニアに来たこと、などを中佐に語った。中佐は、日本から遙かに離れたウラル山中で思いがけなくも日本に関係する話を聞いて、しみじみとした感情を抑えることが出来ず、嬉しい気持ちで4人の紳士と手を握って別れ、勇んで馬に跨がりウラル山頂をめざして登っていった。

    ■欧亜境界

    中佐がウラル山中に入ってからもう数日が経った。次第に上り坂が多くなり、高度を増したように感じるが、幾重にも重なった山や丘を上ったり下ったりしてきても、樹林が視界を遮っていて同じ所をずっと見続けていることができないので、どこが山頂なのかわからない。そういう状態なので、ヨーロッパとアジアの境界に建つ石標を見落とすまいと思い、各駅ごとに石標の所在地を尋ねながら登っていたのだが、7月9日の午前11時に路傍の樹林が鬱蒼と茂っている所に来て一基の石を見つけ、馬を留めてその文字を読めば、これこそ欧亜二大陸を区別する境界の石標であった。石の高さは二段の基石とも合わせて二間(3.6m強)ほどもあろうか、周囲を鉄柵で囲い、表に碑文がある。下に1845年と記されているのは建立の年である。東方にアジア、西方にはヨーロッパと彫ってある。こここそウラルの山頂だろうと思って周囲を見渡すが、樹林が道を覆っていて遠くの方まで見渡すことができない。ただ低い丘が連なっているのを樹間からのぞき見するだけである。中佐は馬を老木に繋ぎ、路傍の樹の根元に腰掛けて石標に向かって目を閉じて瞑想すれば、しみじみとした感慨がこみ上げてくるのであった。思うのであるが、大地は混然たる一つの塊である。どうしてヨーロッパだアジアだという別があろう。ところが現実は二つのものとされている。これがどうして自然の道理であろうか。この大地に生きる者はヨーロッパであれアジアであれ、人間としての精神に優劣はないはずである。単なる肌の色や言語の違いは取り立てて言うほどのことでもないのに、往々にしてあちらが優れこちらが劣っているとするのは、全く理由のない極みである。ああ、人間の作った区画が、どうして自然の摂理を束縛できるのか。中佐は石標を前にこのようなことを思い、しばらく立ち去ることができなかった。やがて鞭を執って立ち上がり、後を振り返ると、旅とはいえども6年の間住み慣れたヨーロッパの山河ともいよいよ別れるのである。前方を望めば、この6年間離れていて夢だけで見た故郷アジアの風景と出会うのである。今我が身は小さな畦一つで西欧と東亜の二大陸に跨がり、悲しみや喜びの感情がふつふつとわき上がるのを抑えられなかった。再び石標の下を徘徊して路傍の草花を摘み、記念のために手帳の間に挿みながら独り呟くのであった。花よお前はヨーロッパの花かそれともアジアの花か、いやどちらにせよ花は花であるよな。その色や香りにどうして優劣があるものか。人間も同じことなんだよ、と。アジアのために意気を示して独り言をつぶやきながら元気よく馬に跨がり、一鞭あてると馬は勢いよく駆け出し、たちまちアジアの山河に入ったのである。振り返ると、西の空に黒雲の塊が見え、遠くで雷鳴が轟いた。嵐を前にして樹林は一斉にざわめき、山はまさに雨になろうとしていた。

    ■鉱物資源

    人馬を襲う馬蜂の毒の恐怖をも忘れ、アジアの前途を考えながら知らず知らずに山を下ること13露里で小さな村に着く。そこにエカテリンブルク警部長の命令を受けて中佐を出迎えに来た一人の警部が来ていた。4時間ばかりこの村で休憩して暑さが少し和らぐのを待って、午後4時に再び出発した。この村からエカテリンブルクまでの23露里の間には、家が1軒あるのみで、荒れた道が遠くまで森林の中を貫いている。山の東側は西側に比べて傾斜がやや急であり、道には小石がたくさん転がっている。そうこうしているうちに雷雨がやってきて、衣服はずぶ濡れになった。雷が止み雨も収まると、前方に寺院の尖塔が空に聳え、高い建物が連なっているのが見えた。これがエカテリンブルク市である。クングールから278露里、騎行6日で到着することができた。地図によれば、エカテリンブルクは山に囲まれた地にあるように見えるが、実際に訪れてみるとウラル山脈の麓にあって、地形は平坦で周囲に高い山脈は見えない。山を背負って湖に面し、松林が市の周囲を囲んでいるのを見るだけである。人口は約4万人で、ウラル山は鉱物資源が豊富で、エカテリンブルクはその中心地である。製造業や商業が盛んで、年間の取引高は1億ルーブルに達するそうである。寺院や中学校、官立の彫刻所、クラブ、消防署、囚人護送兵舎、博物館、各種工場のようなものが主な建物であり、高層建築が軒を並べ、馬や馬車の往来が頻繁である。そのにぎやかな様はウラル以東太平洋岸までの間で見ることができないほどである。中佐は馬を休め、この地を調査するために5日間留まった。ある日公園でくつろいでいたところ、一人の紳士が帽子を脱いで会釈をしながら中佐のところへ来て、もしやあなたは日本の福島少佐ではありませんか、と話しかけた。中佐がそうですと答えると、紳士は中佐の手を握り、やはりそうでしたか、私はパクレフスキーの次男でジョンと言います。先日姉婿のリンゼンカンプ大佐からの手紙であなたのことを知り、心待ちにお待ちしておりましたと、満面に喜色をたたえながら言った。このときから中佐が滞在している間、毎日彼の家に招待され、盛んな饗応を受けることになった。この町にあるパクレフスキー氏の支店は、見る人を驚かせるほど大きく豪華であり、立ち並ぶ豪邸はまるで王侯貴族の宮殿のようであった。この町で勤務して数年になる警部長のタウベ男爵は、かつて日本の黒田伯爵がシベリアを歴遊してこの地を訪れたときに彼の案内を務め、記念として煙草入れを贈られたのであるが、中佐と出会って当時のことを話し、まるで旧知に出会ったかのように喜んだ。中佐がこの地を出発するとき、パクレフスキー氏はシベリア各地の支店に宛てた添書を中佐に贈り、また、タウベ氏と一緒に黄金製の記念メダルを中佐に贈った。

    ■美姫目送

    7月15日午前7時半にエカテリンブルクを出発すると、警部長のタウベ氏は豪商パクレフスキー氏と共に中佐を町外れまで送り、鉄道線路踏切の番小屋で休憩した。中佐が馬を下りてウラルを柵に繋ごうとしたその時、ウラルが他の馬を見て狂ったように暴れたため、柵もろともに倒されて腰の辺りを負傷した。パクレフスキー氏が携えてきた弁当を開いて皆でいただき、しばらく談笑してから別れた。見渡すと、一帯の高原道路は平坦で、時に低い丘が断続しているのが見える。道に木陰はなく、暑さで外套の重さがこたえる。2露里ほど行ってゆるやかな坂を下ると小さな湖があった。湖に面した岸の上に富豪の別荘が一軒あり、瀟洒な建物が柵の中に建っていた。中佐が通りかかると数人の美しい娘が庭に走り出て、柵の間からこちらを見ながら口々に「福島中佐の旅行の無事を祈ります」と叫びながら見送ってくれた。湖上の橋を渡ると村があり、小憩して馬を休め、再び出発して午後1時にコリスナ駅に着いた。ここでエカテリンブルクから案内してくれた警部補と別れた。午後4時半、ある小さな村に着く。ここからは森の中を行き、昔の並木が点々と残っていたので、やや緑陰があって暑さをしのぐことができた。午後8時にピエロヤルスカヤ駅に着いてここで泊まった。エカテリンブルクから52露里あり、鉄道線路を3回横断した。中佐が駅舎に入って秣の用意を主人に頼んだところ、主人は、「この辺りの民家は普通平均2頭の馬を飼っていましたが、近年の凶作で秣さえ乏しく価格も暴騰し、皆しかたなく大切な農馬を二束三文で売り払い、今は残っている馬も多くありません。平年なら黒パン1ポンド20コペイカほどなのですが、今は2ルーブルに上がり、蒸し麦なども15コペイカほどのものが1ルーブル20コペイカ以上にもなっています。今年も天候不順で夏に入っても雨が少なく、今年の取れ高も心配です」と眉をひそめながら言うのだった。ぼやきながらも、主人はたいそう親切に中佐をもてなし、スープや焼き肉などを料理し、客室の床の上に蒲団を敷き、枕や毛布なども用意して準備万端調えてくれたのだが、この日、馬の腹帯を締めようとした時、乗馬のウラルが突然怒って中佐の左下腹を強く噛んだ痕が腫れ上がり、痛みが激しくて夜中に熱が出たのと虱の多さに苦しめられて眠ることができなかった。明け方の3時頃までまどろんだかと思うとすぐに夜は明けて、出発の用意をするのであった。

    ■飲酒効用

    続いて2日で78露里進み、カムシマロツフ市に泊まった。この宿駅は人口およそ4千人である。翌18日、丘陵の麦畑の間を52露里進んでグヤロヴスカヤ駅の一民家に泊まる。この家はとても貧しくて寝台すらなく、木の椅子を7脚借りて辛うじてその上に横になったのだが、虱はそれでも椅子の脚を伝って襲ってきて、あちこち痒くてたまらなかった。そのとき同行していた案内の巡査は非常に酒好きで、炎天下でも携えて来たウォッカを飲んでいたのだが、中佐が酒を好まず一滴も飲まないのでさすがに気兼ねしたのだろうか、この夜泊まった民家では腰を少しかがめて作り笑いをしながらウォッカを飲んでもかまいませんかと問うのである。中佐がおかしさをこらえて、少しならいいでしょうが大酒はいけませんよと言うと、巡査は大変喜んで、多くは飲みません、少しだけいただきますと言ってウォッカの壜を引き寄せて飲み始め、やがてほろ酔い気分で寝てしまい、室内に倒れたままごうごうと大いびきをかくのだった。中佐は虱に攻められて眠ることが出来ず、この巡査が前後不覚に高いびきをかいているのを羨ましげに眺めて、ウォッカは防寒のためによいと聞いていたが、さては防虫のためにも役に立つのかと思い、酒の効用も大きいものがあるなあとつぶやきつつ、煩悶しながら夜を明かしたのだった。ロシアの人が一般的に酒を好むのは、寒い国ならではのことであるらしい。

    ■波蘭富豪

    翌19日午前8時出発、林の中の道を18露里行き、ピシュマ川を渡って、午前11時タリツア村に着いた。この日、途上で初めてペルム近郊にコレラ患者が出たことを聞いた。タリッツァ村は、あのポーランドの名士パクレフスキー氏がロシアに対する抵抗運動に敗れて流罪となり、艱難辛苦の後に事業を興してついに莫大な富を築いた所であり、そのウオッカ製造所がまさにここにある。ここはかつて鬱蒼とした大森林があるだけの土地だったが、パクレフスキー氏の工場が建ってからは市街となり、この辺りの民家は全て製造工場に働く職員の家で、小学校・郵便局・警察署などがある。村の東には森林のそばに大きな赤瓦の建物がある。これは製造工場のために設けられた鉄道駅であり、その名をパクレフスキー停車場と言う。パ氏の家はチエレマ川に面し、南に丘陵を望み北には森林を控える美しい自然の中に建っていて、まるで王宮のようである。パ氏は実にこの村の大王であった。中佐が着いた時、長男のパ氏は商用でパリに出張中だったが、エカテリンブルクにいる次男からの連絡によって中佐が来るのを知っており、工場長とその妻が警察官等と一緒に出てきて中佐を近郊で待ち受けて客殿に案内した。パ氏と取引するために来る地方の商人を宿泊させる建物である。中佐はここに泊まり、食事は工場長の家でいただいた。工場長もやはりポーランド人で、かつて反乱に加わってシベリアに流され、その後赦免されたそうである。その夫人はよく客人をもてなし、この日は中佐を馬車に乗せてパクレフスキー停車場の見物に案内した。駅まで6露里ある森の中の道路は管理が行き届き、まるで公園の中を行くようである。停車場の庭を散歩していると、園内の草花がまさに咲きそろい、紅白の絨毯を敷いているようである。夫人が笑って中佐に言う。今年はあなたと一緒によい年が訪れました。昨年は野も山も緑がなかったのですよと。おそらく飢饉のことを言っているのであろう。しばらく時の経つのも忘れて談笑し、工場長の家に戻って晩餐の饗応を受けた。この夜はきらびやかに飾られた室内の清潔で心地よいベッドに横になり、久しぶりの快眠をむさぼったのである。

    ■酒造工場

    翌日、中佐はパ氏のウオッカ製造工場を見学した。ドイツ語ができる役員一人が案内した。工場の規模は広大で、建物は広々とし、特に目を驚かせるのはウオッカの貯蔵倉庫であった。倉庫内には11個の大きな樽があり、一つで15万ガロンの容量がある。165万本の酒瓶が常に蓄えられているのである。その販売所は西部シベリアと東部シベリアとで150箇所あるという。中佐は製造量を聞いたが、案内の役員は笑って答えなかった。11個の樽全てで何日分なのですかと尋ねると、ロシアの人口とロシア人の好みとをご理解されたら販売量はお分かりいただけるでしょうと言う。仮にこの工場の販売先を400万戸と見て、1戸5人、3戸で一日一瓶を飲み干すと考えても、あの11槽160万本の酒が瞬時に飲み尽くされることになり、年間の製造量の大きさが想像できる。そして、ロシア政府は一瓶に28コペイカの税金を課す。パ氏が毎年収める醸造税はおそらく膨大なものであろう。ウラジオストックは一瓶の価格が60コペイカに過ぎず、ウオッカを製造するのにわずか7昼夜しかかからないという。ウオッカ製造所のそばにビール製造所もある。しかし、ロシア人の多くはウオッカを好んで飲むので、ビールの製造量はたいしたものではないらしい。

    ■悲憤回顧

    晩餐の招きを受けて工場長の家を訪れると、主人のパ氏がパリから戻っていて、中佐の手を握って歓待し、春のように和やかな雰囲気で食卓を囲んで談笑して過ごしたが、パ氏が中佐のために特に反乱の時のことを話し出すと、一同は憤りと悲しみの感情を抑えることができなかった。中佐が聞くところによれば、反乱で捕らえられた囚人は、ポーランドからオムスクまで炎天下あるいは氷雪の上を10ヶ月間歩かされたという。その日、午後4時に退出して出発した。製造所の各役員及びその夫人や令嬢たちが、馬車や騎馬でバクレフスキー停車場の前まで見送り、中佐の姿が見えなくなるまでハンカチや帽子を振って、中佐の安全を祈って別れを告げたのであった。ここから東は道は平坦で、緑濃い並木が道を覆っていたため、暑さを感じることなく騎行出来た。33露里進んでマルクドバ村に着いたのは午後9時であった。

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