第2章:露国明暗
福島中佐はいよいよロシア本土に入りました。当時、東ヨーロッパからアジアにまたがる超大国として君臨していたロシア帝国は、貴族階級が豪華絢爛とした毎日を過ごす一方で、多くの国民が極度の貧困にあえぐという大きな矛盾を抱えていました。中佐と愛馬凱旋は、ようやく暖かくなってきた美しい自然の中を、東へ東へと進んでいきます。しかしやがて、愛馬凱旋との別れという、思いがけない試練が訪れるのでした。

  • ■深夜彷徨

    桜狩りや紅葉狩りでも、一夜の旅をおっくうがるのは人の常だろう。まして、ただ独り故郷を遠く離れた異境の地に入り、宿を求めて一晩中彷徨しても雨露をしのぐ軒さえ無いような状況であれば、普通の人はどんなにか苦しく感じることだろう。しかし、中佐はそのような苦難をも現地を知る格好の材料としたのである。

    3月17日にプスコフに到着、歩兵第146連隊の賓客として兵舎に一泊し、翌日もここに逗留して馬を休めた。3月19日は七十一露里を行き、ナバセリヤに到着した。波蘭の地域は人口が多く沿道には村落が散在しているけれども、コブノから北のロシア領に入ってからは人家少なく森が多い。特に旅人は皆便利な鉄道を利用し、わざわざ風雪にさらされて道路を行く者はいないので、道路は人影非常に少なく、時には橇で薪を運ぶ者に遇うことはあっても、それすら日に数台に過ぎない。

    更に、ロシアの村は人々が皆貧しく、夜は他国の村のような家々の窓の明かりを見ることも極めて少ない。そんな状況なので、中佐がこの日、寂寥たる森林を通り抜けてようやくナバセリヤに着いた頃には日は既に沈み、周囲は薄暗くなっていたが、ひとかたまりの寒村に燈火は見えず、村に入って初めて細々とした燈を見た。近くで見ると二階建ての家である。入口の戸をトントンと叩くと、一人の男が出てきた。男はドイツ語を話す。中佐がドイツ語で一白の宿を求めると、この家には厩が無いからという理由で泊めてくれない。

    中佐が、この村に警察はあるかと問うと、無いと言う。それでは、厩のある家はどこにあるかと尋ねると、村の北のはずれにあると言うので、一日中騎行して疲れはてた馬を引いて村の北はずれに着くと、一軒の荒屋があった。中佐は荒屋の戸を開けたのだが、臭くて我慢できないほど煙草の臭いがむっと鼻をつき、たちこめた煙は目にしみて痛いほどであった。入口を入ってみると、無数の貧しい人々がたむろしている。一泊の宿を求めると、お安いことだと承知してくれたが、しかし厩が無いというので困りはて、この村には厩は無いのかと尋ねると、村の南の端にある二階建ての家には厩があると言う。

    大変奇妙だと思ったけれど、しかたないので、終日の苦労をいたわりながら疲れた馬の首を撫で、先ほど来た道をまたも戻って村の南のはずれまで来ると、二階建ての家は先刻訪れた家以外には無い。ともかく、もう一度聞いてみようと思って玄関の戸を叩くと、一人の下女が顔を出したが戸は開けず、家の中から何のご用かと問う。中佐が、主人に面会したいと言うと、女は何故会いたいのかと聞く。中佐が、会って話したいことがあるのだと答えたのに対し、女は話の内容は何だと聞いてくる。

    あまりにうるさいので、中佐も耐えかねずに、あなたの知る必要の無いことである、そのように主人に伝えよと叱った。ちょうどそのとき、主人が戸を開けて出てきて、中佐に向かって何事か大声で一声叫んだ。中佐は落ち着いて馬を繋いでから家に入り、ロシア外務省の発行した通行旅券を取り出して主人に示したところ、彼は急に顔色を変え言葉を丁寧にして簡単に一宿を承諾、中佐の馬を屋敷の立派な厩に入れさせたのである。後で聞けばこの二階建ての家こそ村の警察署であり、中佐に向かって大声で怒鳴った男は警部だったのだが、当初はそんなことが分かるはずもない。この夜はわずかに茶とパンだけで一夜を明かしたのであった。

    ■積雪埋道

    ヂナブルク以北は益々寒く、周り一面は雪景色で丘も川も野も山も白一色、わずかの緑も見えない。雪のために、どこが街道なのかも分からず、ただ人馬に踏み分けられた一条の小径がようやく判別できるだけである。降り積もった雪の上を踏み固めてかろうじて人馬が通れるほどの狭い道である。このような狭い小径で偶然橇などに出遭ったときは、馬をうまくすれ違わさないといけないが、かわそうにも道は狭く両脇は積雪である。身動きがとれず、しばしば馬を降りてかろうじて行き違うのだった。また、大変危険なのは、通過した馬の尿が積雪を溶かして大きな穴を作っているのを、乗馬が気付かずに足をその穴に突っ込み、突然倒れることがある。中佐の馬もしばしば尿の穴に足を踏み入れて雪の上に倒れたのである。危険なことである。

    ■小官権重

    地位が高い人は道理が分かっているので偉そうにすることはないものだが、田舎の小役人には威張りちらすものが多い。中佐が通り過ぎた軍営では連隊長や大隊長などから優遇を受けないことはなかったが、かえって田舎に行くほど小役人が偉そうにするのに驚いた。

    3月19日 ある村の警察官の家に泊まった時、次に泊まる予定のルガの警察官に添書を書いてくれたので、それを持って翌々日の3月21日にルガという小さな町に着き、警察署を訪れてその添書を提示した。ルガの警察官は添書を見るや、むっとして机の上に放り出し、怒気を含んだ顔で同僚と何やら話し合ったのである。中佐は、私はただ厩のある旅館を世話してほしいだけのことである。それ以上のことを要望する者ではないと告げた。警部はそれで中佐を案内して駅の傍にある旅館に導き、次のようなことを言って立ち去った。「ここから北40露里のところに小さな村がある。明日の宿はこの村なのだろう。宿の準備もしておきたいのだが、幸いにその村の宿の主人も用事でルガに来ているので、明日の朝その主人をここに来させよう。そして、明朝出立の折には巡査一人をつけて市外まで見送りさせよう。」

    翌朝、次宿の主人がやってきて、私らは一足先に村に帰りお待ち申し上げようと言って別れたが、あの案内をしてくれる予定の巡査はついに姿を見せない。中佐はいつまでも待っていることもできないので、市外に出る道を尋ねながらルガを出発して40露里を進み村の入口に着いたのだが、今度は待っていると言った宿の主人の姿が見えない。あちこち行ったり来たりしてようやく宿は探し当てたけれど、主人はおらず妻だけ留守をしていた。今夜私が一泊するという通知が届いているはずだと言うと、そんな知らせは受け取っていないと言う。主人はいつごろお戻りかと問うと、それも分からないと言い、対応が気にくわなかったので、また馬を走らせて北に5露里のヤスチエーラという小さな村に着き、一軒の農家に入って黒パンと玉子で飢えをしのぎ、木の長椅子にもたれ、外套を被って一夜を明かしたのであった。中佐が言うには、自分がまだロシア語に習熟していないためにこのような行き違いも起こるのだろうと。たぶん、中佐一人だけならどこにでも泊まれようが、いつも宿に苦労するのは厩を必要とする馬のためなのだろう。

    ■露国帝都

    中佐が露都ペテルブルクに着いたのは3月24日である。ベルリンから1617露里、独露国境から1304露里、ベルリンを発ってから45日を要した。ペテルブルクの南にモスクワ門があり、門外約10露里のところに騎兵将校学校の将校数十名が出迎え、中佐を騎兵学校に案内すると、校長が門外に出迎え、盛大な晩餐会を催して歓待し、記念の勲章を贈り、校内の集会所の三室を中佐のたの宿泊所に開放し、兵卒一人を従卒として付けたのである。この騎兵将校学校は全ロシアの各連隊から各1~2名の騎兵士官を選抜して入学させる最高等の騎兵学校であり、附属施設として蹄鉄学校があり、これも全国各連隊の蹄鉄工を入学させる。中佐は、この先のシベリア・蒙古の未開地を踏破するためには、蹄鉄の打ち方を学んでおく必要を感じ、露都滞在の15日間を利用して蹄鉄のはずしかた、打ち方、爪の削り方などを学んだところ、すぐにそれらを修得したのである。これによって、簡単な蹄鉄用の機械を携行し、以後どこに行っても自分で蹄鉄を補修することができ、どこへ行っても不便を感じることがなかったのである。

    4月9日、中佐が露都ペテルブルクを出発するとき、騎兵学校の将校数十名が見送り、モスクワ門の辺りで別れを告げた。数露里行ったところで道が二つに分かれている。右はガチナ離宮に通ずる本道で、道沿いの並木がとても美しく、往来する人もまたたくさんである。左はモスクワ街道であり、道路には並木も無く、行き交う人も稀で降り積もった雪と深い泥で馬の足も埋もれるほどである。見渡す限り荒涼たる田舎道で、寂寞としている。この辺の地形はだだっ広い荒野が一面に広がり、ペテルブルクからノブゴロドまでの181露里の間は真っ平らな一条の道が続き、途中の曲がり角はただ一箇所だけで、そのほかは一直線に広野を突っ切っている。181露里と言えば殆んど東京から信州上田までの距離にあたる。地理に不案内な者は、東京から信州上田までの街道が一直線にして折れ曲がらず高低差がないことを想像して、やっと荒原の広さを理解できるのである。中佐は、このように旅人が稀で, 人家の少ない広大な181露里の広原を4日間騎行し、4月12日にノブゴロドに無事到着した。

    ■沃土貧民

    ペテルブルクからノブゴロドまでの181露里の間で中佐が宿を借りたのは、皆野原の小村落の貧しい家である。この辺りは露都からそんなに遠くない上に雪こそ深いが地味は肥えていると思われるのに、人家極めて少なく村は小さく極めて貧しい様子である。中佐だけではなく乗馬もいるので、このような貧しい村で旅宿を求めようとしても、人は泊められても厩が無いとか、厩があっても人を泊められる部屋がないとかで、最も難しかったのは一夜の宿であった。幸いにして人と馬が泊まれる宿が見つかっても、黒パンと玉子だけで飢えをしのぎ、列氏零下45度(摂氏零下56度強)の厳寒の夜に、木の長椅子または椅子四、五脚を並べた上に外套を被って横になり、しばし仮眠をするだけに過ぎないこともあった。このようなことからも、この辺りの人々の生活程度がわかるだろう。

    露都出発の翌日(4月10日)は昼過ぎにとある小さな村に着き、茶店らしきところで腰を下ろして黒パンを食べ茶を飲んでいたところ、農夫らしき人たちが集まって来て中佐を取り囲んで様々なことを問いかけてくる。彼等の風体はいかにも不潔で、言い表すことができないほど汚い。多くの物乞いさえ集まり来て金銭をせがもうとする。その時、突然茶店に入ってきた一人の男がドイツ語で話しかけてきた。この男はドイツワイマールの人で、この地で商売をして30年になる。中佐はこの男に向かって、この辺りの土地はよく肥えて農業に適するばかりでなく、工業を興す余地もないことはないと見えるのだが、何故にこんなに貧しいのかと尋ねると、その男が答えて言う。これは全てウォッカのせいである。人々は皆ウォッカを好み、一日働いてわずかの金銭を得ればすぐに酒屋で飲み尽くし、また働いてまた飲み、一生ウォッカのために働いてウォッカのために死ぬ。ウォッカが彼等をだらしなくして、貧しいのは彼等が自ら招いているのだ、と。支那の阿片、ロシアのウォッカ、どちらも社会の害毒である。このように村落が少なく貧しい人が多いので、盜賊が出没すること多く、夜間の地方旅行には武器の携帯が必要であるという。

    ■盜賊遁走

    以前、中佐が露都を出発する際に、騎兵学校長が中佐を門外に見送りながら次のように忠告した。曰く、最近特赦によってたくさんの囚人が放免されたが、彼等はみな盜賊となり、独り旅の者と見れば脅迫して盗み奪い、しばしば狂暴になって危害を加えることも多い。あなたがこれから行く道筋にはきっとこのような輩が出没するだろう。もし危害が及ぶような事態になれば無理をせずぜひ露都まで帰ってきてほしい。中佐はその忠告の厚意に対してお礼を述べたが、中身のことに関しては笑って答えなかった。

    やがて、森の中や荒野の道で確かに盜賊とも思える人相の悪い者としばしば出遭った。その時、積雪のために道が大変狭くなっていたが、中佐はわざと馬の首を彼等にすりつけるほど近づけて威厳を見せつけると、彼等は引き下がって道を譲り、ある者は敬礼をして中佐の通り過ぎるのを見守ったのである。このようにして、何事もなくノブゴロドに到着した。

    ■春風融雪

    ノブゴロドは、露都ペテルブルグからモスクワに向かう途中で最初の市街であり、昔は通商の要地であったが、今や鉄道路線から外れ、当時の賑わいは見られない。市はイルメン湖の畔にあり、町の傍を大河が流れ、風景は絵のように美しい。中佐が初めて独露国境を越えてペテルブルグに着いた頃は、ネバ川はじめ多くの河川はまだ硬い氷に覆われて騎馬にて渡ることができた。露都に留まる15日間の間に次第に春風が吹いて暖かくなり、ペテルブルクを出発してからは道を埋めていた雪は既に溶け始めて道路は泥濘と化した。ネバ川以外の河川の氷も全て溶け去ったので、氷雪の上を行くのとは違って道路はぬかるんで馬の歩みを著しく妨げられた。しかも凱旋の足に傷があるため騎行が困難だったけれども、馬具屋の主人が教えてくれた英国製の塗り薬を使いながらようやくノブゴロドに着いた。此の頃には馬の足の傷も少し良くなって膿もでなくなっていた。

    国境からヂナブルクまではいたる所に兵営があり、士官はたいていドイツ語かフランス語を話すので、中佐はロシア語を知らなくてもさして不便がなく学ぼうともしなかったけれど、ヂナブルク以後はロシア語でなくては日常の用もほとんど足すことができない。そこで中佐は一日数語を習い覚えはじめたが、なにしろまだ習い始めで片言なので、不便を感じることが少なくなかった。前日ノブゴロドの旅館の名は聞いたのだが、着いてみれば旅館の場所がわからない。どうしたものかと困っていたが、やっとのことで馬車屋の男に30コペイカを与えて道案内を頼み、サロバハという旅館に入ることができた。ペテルブルグを出て4日目にして初めて暖炉で暖められた部屋に入り、スープとステーキで空腹を満たし、柔らかくて温かい寝台の上でぐっすりと眠ることができた。この時の中佐の満足感はいかほどであっただろう。

    この地にドイツ皇帝を名誉長に戴く歩兵の一連隊が駐屯していた。連隊長はかつて中佐がドイツのブレスラウで行われた陸軍大演習の時に知り合った旧知である。中佐の到着を聞いてすぐに旅館を訪れ、しばし思い出話で時を過ごした。翌日出立の折には連隊名で紀念章を中佐に贈り、将校一同を率いて市外まで見送り、一同はシャンパンで乾杯をして天皇陛下万歳を祝し、更に中佐の無事を祈って楽隊が日本進軍の曲を演奏してくれた。他国軍人が帝国軍人に対してこのように温かい気持ちを表現してくれたことは、喜びに堪えない。そして、中佐が温かい春風に衣をひるがえしながらつつがなく旅を続けることを祝福し、祈らずにはおれない。

    ■文士厚情

    翌日4月13日、ノブゴロドの市外で見送りの歩兵将校等と別れ、単騎で出発した。そのうちに一騎が追いかけてきた。誰かと問うと、その作品がモスクワの劇場で演じられるほどの有名な脚本作者であるという。彼はコサック騎兵の鞍にまたがり、コサック騎兵の鞭を持っていた。中佐に向かって、「私は平素から騎馬武者の勇壮を愛し、馬具は騎兵用のを用いている。この度あなたの壮大な計画を聞き、敬い慕う心を抑えることができず、仕事をなげうって貴下を追いかけてきました。あなたに会うことができてとても嬉しい」と言い、今後の経由地や予定日数などを尋ねて、感心することしきりである。さらに、「貴下は妻子をお持ちか」と問う。中佐が、「妻も子もおり、子は4人です」と答えると、彼は大変感心した様子で、私にも妻子がおりますが、我が心に比べてますます貴下の遠征が普通のことではないことを知りました。これから通過する地は人情風俗が異なるばかりか、言葉さえ通じない所です。慣れない気候は頑健な身体をもってしても適応できないほどに厳しく、蒙古や満州にいたっては人心野蛮にして危険な所です。最愛の妻子を何千里も離れた地に残し、単騎でこの危険な遠征を計画する貴下の前途を思うと私は恐れのためにぞっとします、などと語る。この脚本家とはノブゴロドから10露里ほどの教会の前で別れた。

    ところが、しばらく経って後方からまた馬蹄の響きがして誰かが追いかけてくる。振り返って見ると先ほどの脚本家である。「言い残したことがおありか」と問うと、「いや、あなたと別れて帰路についたものの、やはりあなたのことを思うと気がふさがり、お別れしがたく、また送り参ったのである。あなたを今夜の宿所に送らせて欲しい」と言うのであった。中佐は厚意を謝して一緒に馬を進めた。ああ、彼はいつも脚本の上で人情の機微を描き、社会の移り変わりを描写しているために、実世界の人間の営みにおいても感じることが多いのであろう。このような情の厚い人であるから彼の作品もまた人情を巧みに表現したものなのであろう。

    そうこうするうちに、また背後に三頭立ての橇が追いかけてきた。ノブゴロドの警視監と書記官が見送りに来たのだった。この日(4月13日)は馬を休ませるために、25露里ほどでブラニッツという村に投宿した。この村はモスクワとペテルブルグ間にまだ鉄道が開通していなかった頃は沿道の一大駅として駅馬300頭を置いていたが、鉄道開通後は旅客が激減して、今は寂しい一寒村になっている。それで今夜は鶏卵と黒パンだけと覚悟していたのだが、日暮れにまたも一人の警部が着飾った三人の貴婦人を伴ってノブゴロドから見送りに来た。婦人は皆美しく、料理した肉さえ携えてきて、饗応この上もない。中佐は思いがけなくも美人を前に御馳走をいただき、歓談してくつろいだ時を過ごすことができた。まさに、旅行中の喜ぶべき出来事であった。この夜8時頃、脚本家及び警部等と三美人は、別れを告げてノブゴロドへ帰っていった。

    ■率直律儀

    ある日、小さな村で馬を休めるのに適当な民家を探したが、どこもとても貧しそうな農家ばかりだった。あるあばら屋の戸を叩いたところ、この寒中に裸足で破れた服一枚着ただけの少年が出てきて、中佐の容貌や身なりを見て怪訝そうな顔をしながらまた家の奧へ駆け戻っていった。変なおじさんが来たよとでも母親に告げたのであろうか、汚れきったつぎはぎだらけの服を着たみすぼらしい女が、やはり裸足で出てきたのである。田舎者の常で、挨拶もせずただ訝しそうに中佐の顔を見つめている。中佐が、馬を休めたいと思っているが、草はないかと尋ねると、女はそれはお安いことですと、草を持ってきてくれた。

    中佐は繋いだ馬に草を食わせてからしばらく休んで出発しようと思い、草の代金として20コペイカを与えたところ、女は、「このあたりに草はいくらでもあります。20コペイカの値打ちはないものです」と言って受け取ろうとしない。「いやいや、ほんのお礼ですよ」と、中佐が渡そうとしても決して受け取ろうとしないので、「それでは子どもさんに何か買ってやってください」と、お金をそこに置いて出発したのである。何と律儀で率直な人だろう。

    ■義理人情

    脚本家と三人の美女たちが帰った後、軟膏を馬の足に塗ってやり、宿の人々と談笑して時間が過ぎた。さて寝ようとして床に就いたところ、トコジラミがうじゃうじゃいて、とても安眠できない。明け方二時頃にようやく疲れ果てて一睡し、翌14日の午前9時15分にブラニッツを出発した。凱旋の足はまだ完全に癒えてはいないので早足で行くことはできず、いつも並足だけであるが、馬も最近では慣れて並足でも1時間に6露里を行くことができるようになっている。気候は次第に温かくなり、道はだんだんと南に向かっているため、行くにしたがって雪も次第に少なくなってきた。

    昨日までは晴れ渡った日光が雪に眩しく反射して遠くを見晴らすことができないこともあったが、この日は未明から雪が降りしきり、風も加わって風雪が顔面を打って目を開けておれず、帽子を目深に被って、顔を背けながら進んでいった。昼頃まで列氏5度(摂氏6度強)になっていた気温は一気に零下2度にまで下がり、肌が寒さで痛いほどだった。今夜はどんな宿に眠ることになるだろう、疲れた馬も休める厩があってほしいものだなどと考えつつ、単騎風雪の中を進んでいたちょうどそのとき、一台の橇に出遭った。

    見ると、一人の男が若い女と一緒に乗っており、近づくにつれて帽子を振り口を揃えて言った。「お元気でよかった、前からあなた(中佐)がここを通過されると聞いてお待ちしていたのですが、あいにく今日はこの雪と風でさぞかし途中で難儀されているだろうと思い、せめて途中からでもお迎えしようと二人で参りました。今夜の宿もすでに準備してあります。さあご一緒に参りましょう。」中佐はその厚意に深く感謝し、一緒にブラニッツから54露里のクレスツォフという所に着いたのは午後7時15分であった。そのようにして二人に伴われて旅宿に着き、初めてこの男が旅宿の主人とその妻であることを知った。清潔な二室を中佐のために充て、厩も既に準備して用意万端、待遇はとても丁寧である。この日は馬も最も疲れていたので、思いがけずこのような厚遇を得たのは天の助けと言うべきであろう。

    翌日出発しようとして宿代を払おうとしたのだが、主人はどうしても受け取ろうとせず、「敬い慕う気持ちからお世話申し上げただけです。宿代を頂こうなどとは思っておりません」と、受け取ることを強く拒むので、しかたなく、召使いにでもということでわずかの茶代と、記念のための写真1枚を置いて別れた。意地悪く浅はかなことの多い世の中であるが、中にはこのように情の厚い人もいるのだ。

    ■卑劣報道

    この日(4月14日)、中佐がクレスツォフの宿に着くやいなや、老いも若きも垣根をつくるように群集して中佐を見守った。皆、中佐の馬を指さして、「これこそあの新聞に出ていたアルハンブラ-という馬だ」と言っているらしい。アルハンブラ-とはスペインの町の名であり空中の楼閣という意味の言葉である。これより前のこと、中佐が馬に跨がってベルリンを出て以降、その壮大な計画が成功するかどうかについての噂は欧州全土に広がり、ある人は成功すると言い、別の人は中止するだろうと言う。遂には巨額を掛けて成否を論ずるまでになり、中止すべしと言う者は新聞に投書して様々な意見を述べ、かつこのような冒険的遠征は白人だけが可能なことであると信じる人たちの中には、黄色人種である日本の軍人によって計画されたということを妬む気持ちから、中佐の騎行を妨害し名誉を傷つけようとする者もいた。このようなわけで、様々な風評が新聞によって伝えられたが、あの空中楼閣という意味の語が馬の名であるというようなでたらめも、この冒険旅行の意義を傷つけようとする新聞の報道なのである。浅はかでいやらしい根性と言わざるを得ない。

    ■森林地帯

    4月15日、クレスツォフを出発して53露里でワルダイ市に一泊した。ここは人家はまばらで道路はひどく、市とは名ばかりの寂しい一村落に過ぎない。翌日(4月16日)雨をついて出発した。ロシアに入って以来雨に遭ったのはこの日が初めてである。過ぎていく道は鬱蒼としてどこまでも続く大森林の中である。森の中の雪は次第に溶け始めてぬかるみとなり、馬は歩む毎に次々と深みに足をとられ、騎行は困難を極めた。この日(4月16日)は46露里進んで、ウゼンキノーに泊まった。この辺りは人の往来も非常に少なく、ワルダイからウゼンキノーまでの間ですれ違ったのは、橇7台と人5人だけである。46露里と言えば東京から小田原までの距離だ。東京から小田原まで鬱蒼とした物寂しい大森林が続いていると仮定し、一日わずか5人の旅人と7台の人力車に遇っただけとしてこの光景を想像すれば、ご理解いただけるだろう。

    この日(4月16日)、朝から降っていた雨は昼頃から大雪に変わり、騎行困難にしてウゼンキノーに着いたのは午後7時だった。すぐに巡査の有無を問うたところ、警察署があるという。訪ねていって面会を申し込んだところ、一人の老婆が留守番をしており、巡査は近所の教会に行ってここにはいないという。中佐は、用事があるので教会へ行って巡査を呼んできて欲しいと頼んだのだが、老婆は不満そうな顔で承知しない。そこで中佐は一葉の名刺に10コペイカを添えて差し出したところ、老婆は銅貨を見て心が動き、それでは呼んできましょうと言って門を出ようとしたところへ、当の巡査が帰ってきて何の用かと聞くのである。宿所の世話を依頼したところ、どう理解したのであろうか、言いようもないほど不潔な百姓家に中佐を連れて行ったのである。まず厩を見てみると、雨漏りがひどく、雪が溶けて去年の馬糞が泥と混じり合って、不潔なことこの上もない。結局、疲れた馬を繋いで休ませようとすることができないので、藁を少し都合してほしいと頼んだのだが、巡査は引き受けてくれない。しかたないので、また疲れた馬と共に次の宿まで行こうと用意していたところ、巡査は後日のお上からの処置が怖くなったのであろう、やっと藁をつもりしてくれたのである。それを厩に敷いて馬を休ませ、中佐自身は例の汚らしい百姓家で一夜を明かしたのであるが、トコジラミが群がり来て、手を刺し足を刺し首筋を刺して、一晩中眠ることができなかった。

    ■旧知再会

    その後、二日で104露里を行き、4月20日にタルヂョックに着く。ここに駐屯している予備役の軍司令官が訪ねてきた。その夫人は、中佐がかつてベルリンに居た頃、同じアパートに下宿していた人である。顔見知りであるので、互いに奇遇を喜び、一緒に当時のことを親しく語り合った。夫妻は夜会を催して中佐を歓待したのだった。

    翌日(4月21日)、タルヂョックを出発した。この日は風が穏やかで温かく、正午には列氏5度(摂氏6度強)に上った。そのため、雪は全て溶けて道路はぬかるみ、土地が低くなったところは雪解け水が道に溢れて、昨日までの凍結した田畑が今日は大きな湖水となっている。道ばたの溝は水かさを増して時に激流となって道路に溢れるので、一度などは馬が怖がって水たまりを渡ることができなかった。中佐が下馬して馬を引いて通過したのであるが、水たまりは深さ30㎝余りもあった。以後進むにつれて雪はますます消え、遂に残雪さえも全く見なくなった。長い間氷雪の上だけを歩いてきた馬は、この日二ヶ月ぶりに土を踏むことが出来たのである。この日は33露里を進み、午後3時にミエドノエに着いた。

    ■流氷河川

    ミエドノエ村はヴォルガ河の一支流であるトヴェルツァ川に臨んでいる。支流の川幅は40間(70m強)ほどである。中佐は、まだ日が高かったので川を渡ろうと思い、川の方へ行って渡し舟を呼んだのだが、この日は上流から流れてくる高さ三四尺(約1m)ほどの氷塊が絶えず渡し場の前を横切り、舟を出すことができない。大きな岩ほどの氷塊が幾つも転がるように流れて来るので、もし舟が衝突すればたちまちこなごなに砕かれ、人も馬も命を落とすことになるだろうと、船頭は中佐がどんなに激励しても舟を出してくれない。とうとうこの夜はこの村の一軒の農家に泊まることになった。夜が深けた頃、表のほうが大変騒がしく、たくさんの村人が右往左往しながら大声を出して騒いでいる。ただならぬ物音に目を覚ました中佐が表に出て何事かと尋ねると、あの流れて来る氷塊が下流で堆積し、そのために川が増水して今にも村が浸水しそうになっているので、つかえた氷を下流へ長そうとやっているのだが、上流からどんどん流れてきてどうにもならない。水かさがどんどん増していくので人々が慌てて家財道具を運び出しているのだと言う。こうして、明け方になって下流の氷塊がやっと流れ去って水かさが減少したので、人々の喧噪も収まった。この川の水源は北の方にあるので、下流は氷が早くに溶けるけれども、上流は今頃ようやく溶け始めたのである。

    ■火酒船頭

    翌日(4月22日)、いくら待っても氷塊の流れは止まらず渡河できない。昼頃になって次第に流氷が少なくなったので、船頭を励まして渡ろうとしたのだが、まだ危険だと言って舟を出してくれない。中佐は、これは酒で釣るしかないと思い、そのように船頭に告げようとするのだが、この時はまだロシア語が十分でなかったので思うように言いたいことが伝わらない。そこで、向こう岸を指さしながら、向こう、たくさん、ウォッカと、かろうじて単語を並べたところ、酒に目のない船頭は一を聞いて十を悟り、怖さも忘れて舟の用意などをする。さて、舟の準備ができて凱旋を載せようとしたところ、これまで氷の張った川だけを渡ってきた馬は、広い流れとすさまじい音をたてて流れ来る氷塊を見てびっくりし、押しても引いても舟に乗ろうとしない。ついには、渡し船に慣れた村の農馬を借りて先に乗せたところ、やっと凱旋も舟に乗り移った。流れが急なので船は上流に向かって漕ぎ、流れて来る大氷塊の隙間を縫って進んでいくが、この上もなく危険な状況である。やっとのことで対岸に着くことができ、酒代を船頭に与えたら、船頭は強面の顔に笑みを浮かべてまた元の岸へ漕ぎ戻っていった。

    この辺の雪は全て溶けて道路は土が露わになり、窪地は一面の湖水のような景色となっていた。気候も次第に暖かくなったので、気分も明るくなって馬上で詩を吟じ、歌を歌いつつ26露里を進んだところ、行く手に煉瓦造りの大きな建物がそびえているのが突然見えた。これは軽騎兵第一連隊の兵営である。門前に立っていた一人の下士官が中佐を出迎えて言うには、昨日連隊長を始め士官は皆将校団に集まってあなたの到着を待っていたが、一日中あなたの姿を見なかった。これはきっと道中で何か支障があったにちがいないと一同心配していたが、無事に到着されて喜びに堪えない。中佐が、連隊長はどこにおられるかと聞いたところ、ツウエル市に帰ったと言う。この兵営はヴォルガ河の左岸にあり、川を隔ててツウエル市と向かい合っている。市は川の右岸に沿って広がっており、将校は皆ここに住んでいる。下士官が言う。昨夜連隊長が川を渡って家に帰ろうとしていたとき、渡し船が流氷に衝突して今少しで木っ端微塵になるところだったのだと。人を渡す小船ですらこのように危険なのだ。大きな舟に馬を乗せて渡ろうとすることは想像すらできない。そこで、今日はここで逗留することにし、この夜は騎兵大尉の官舎に一泊した。丁寧な待遇であった。

    ■波蘭名士

    翌日(4月23日)、連隊長は流氷を押して川を渡り、ツウエルから中佐のもとへやってきた。そして中佐をツウエルの官舎に案内して御馳走でもてなし、一緒に市外を見学した。ツウエルはモスクワとペテルブルクの間で最も賑わっている所である。連隊長は名をリーゼンカンプと言い、先帝の侍従武官をしていた人であり、夫人はポーランドの名士パクレブスキー氏の娘である。パクレブスキー氏は当時武器を取ってロシアに抵抗し、その大胆な行動で世間を驚かせたけれど、やがて敗北して捕らえられ、シベリアに流されて無念の涙を飲んだ。20数年後、刑期が満了して許されると同時に、人生に区切りを付けて商業に従事し、艱難辛苦の後ついに酒造によって家計を立て直し、商売は日に日に盛んになって巨万の富を蓄え、シベリアの各地に支店のないところはなく、シベリア屈指の豪商になったのである。艱苦を嘗めても飴のように平気で、前科のある身でありながら巨万の富を成すパクレブスキー氏のような人はおそらく稀であろう。偉大な人と言わざるを得ない。

    パクレブスキー氏は既に亡くなり、三人の子が事業を引き継いでいる。連隊長の夫人もまた父親の艱苦を目にし、世の様々の事柄や人付き合いのことに詳しく心が広いので、中佐の遠征を賞賛するとともに、旅行中の不便を察して夫の連隊長と相談して、シベリア各地におけるパクレブスキー氏の支店に向けて丁寧な添え書きを与えたのである。夫人のありがたい真心を察することができる。翌日(4月24日)、中佐は別れを告げて出発した。連隊長は青年士官や学生を奨励しようと、中佐には紀念章を贈り、部下の将校一同及び騎兵士官学校の学生と楽隊を引き連れて市外に見送り、連隊長夫人もまた小さい子どもを抱いて馬車に乗り、町の遠くの外れまで見送ってくれた。

    ■飢餓地帯

    モスクワに近づくにつれて、破れた衣服をまとった裸足のままの貧しい人々が道端をあてもなく彷徨っているのを目にするようになった。さらに進むと貧しい人々はますます多くなり、中佐は次第にロシアの飢餓地帯に近づいていることを知った。このようにして3日間で158露里を進み、4月24日(※4月26日の誤記か?)の午後6時にモスクワに入った。ペテルブルクからモスクワまで181里、14日間の予定であったが、雪解けの影響で道路がぬかるんで騎行に困難だったのと、流氷が川を塞いで渡れなかったため16日間を費やした。モスクワには馬を留めて12日間滞在した。

    ■気候激変

    5月7日の午前9時、モスクワ軽騎兵営内の宿所を出た。この日、旅団長は閲兵を兼ねて騎兵将校数十名を引き連れ、市外まで中佐を見送らせた。兵営から市の東端までは約10露里、道は丸石を敷き詰めた石畳だったので、市外に出る頃には馬がすでに疲れてしまっていた。中佐がモスクワに留まっている12日の間に氣候は急激に変わって暖かくなり、見渡せば新緑の緑が鮮やかに目に映り、道端の野草も次第に芽を出して赤い花もところどころに咲いている。この道は鉄道線路沿いにあり、森のあちこちには別荘が点在し、白い壁や青い扉などが木立の間に見え隠れする。素晴らしい景色に目も心も慰められて進んでいく。昼過ぎ頃から西の空に黒雲が現れ、雷鳴が遠くに聞こえた。今年最初の雷である。北国の気候はだいたい春と秋の二つの季節がなく、冬からいきなり夏になるような感じである。ところで、馬は12日間も足を休めたにもかかわらずこの日左の足を引きずり、51露里を進んでボゴロスク市に到達した。ここは人口約二千人ばかりの小さな町である。

    ああ、私は再び凱旋のことを書かなければならない。次の日(5月8日)、中佐は45露里を進んでパクレフに着いた。今日はベルリンを出てから88日目であり、その間氷雪や泥濘の中を騎行して甚だ困難な旅であったが、今や気候は暖かくなり、道は平坦で新緑の緑や野の草花の紅に心洗われて爽やかな気分である。人馬ともにこの穏やかでのどかな光景を見てこれまでの困難を忘れようとしている時に、何と悲しく恨めしいことであろう、このような困難を無事に乗り越えてきた凱旋が、こののどかな時になってかえって足の具合が益々悪くなってきたのだ。今日25露里ほど来たと思われる頃から足並が悪く歩行が非常に難しくなって、見るだけで哀れになるので、中佐は乗ったり下りて歩いたり、馬をいたわりながらパクレフを去った。そうして1露里ばかり進んだところで凱旋は足が痛み進むことができなくなった。

    その時、昨日まで西の方にあった黒雲が次第に迫ってきて、たちまち空を黒く覆い尽くして稲妻が走り、雷鳴が轟き、天地も動かすかと思われるほど恐ろしい景色となって、霰や雹まで降ってきて彈丸の飛び交うように人馬を襲う。気持ちだけ苛立ち焦るのだが馬は足が痛んで前に進めない。時には鞭を打ちながら辛うじてパクレフ市の外れに達することが出来た。こうして警部長の自宅を訪れたところ、警部長が出迎えて「ウラヂミル州知事から、あなたが到着されたらきちんとおもてなしをするようにとの命を受けております。今夜は私の家にお泊まりください」と言う。それで、今宵はここで一泊することにし、まずなにはさておき馬を厩に入れて獣医を呼んで診察させたところ、「これは単なる疲労であり大したことではない」と、何事もないかのように言い捨て、辛うじて塗り薬を塗ってくれただけである。翌日(5月9日)、獣医は出立を勧めたけれども逗留して馬を休め、後備軍司令官と一緒に市内を見学した。

    翌5月10日は、五百日余りの長旅の中で最も忘れられない日である、馬はまだ足の痛みで歩くことが出来ない。しかし獣医はしきりに出立を勧める。中佐は思い切って病馬に鞭打って出発した。この地から初めて保護のために巡査1名を付けて随行させた。ここまでは全くなかったことである。18露里ばかり騎行して、その間二軒の農家で休息した。時には歩きまた騎乗して徐行するなど、できるだけ馬の足をいたわったのだったが、二度目に休息した時には、繋いでいた馬が立っておれずにそのまま地面にうずくまってしまった。中佐がこのかわいそうな病馬を引きながら再び4露里進んだとき、馬はとうとう疲れ果てて倒れてしまった。そこで、巡査の乗った馬車の後に繋ぎ、中佐が付き添って首を撫でてやったり、時には鞭打って励ましたりしながら、13露里を歩いてボルヂノ駅に着いたのは午後1時だった。部長が駅外まで出迎え、その家に中佐を案内した。

    ■愛馬凱旋

    凱旋の末路は既に馬に関する頁で詳しく述べた通りである。しかしここに凱旋について三度お知らせするのは、これが些細なことではないからである。翌5月11日、ウラヂミルの獣医を呼んだけれど来ず、パクレフの医師が来て診察して言うには、これは急性リウマチであると。そこで、この夜1時30分の汽車でモスクワに戻り、烏拉を買い求めた。モスクワまでの汽車の窓から外を眺めていると、青々とした新緑の木々や点在する家々など、先日まで凱旋に跨がって通り過ぎるときに目を楽しませてくれた風景がぼんやりと思い出され、毎日励まし合って一緒に旅をした凱旋はあのように倒れてしまった。中佐は窓にもたれかかってあれこれと考え、最近のことを思い出すと様々なことが脳裏に浮かんで感慨を抑えることができず、思わず涙がはらはらと落ちるのであった。

    5月16日、新馬“烏拉”(ウラル)を汽車に載せてボルヂノ駅に帰った。この汽車は下等列車であり、一輌に40人余りを乗せている。乗客はたいてい農夫や工夫などである。ロシアの汽車は上中下の三等があるが、上中等の客は少ないので、下等だけの列車を運行させることが多いそうである。翌日(5月17日)烏拉に試乗する。この日、病馬凱旋を元気にさせようと、郡長の家に牽いてきて、庭で腹ばいにさせた。明日はいよいよ別れかと思うと、名残惜しくてしかたがない。しばしば庭に出て、ほとんど泣かんばかりに涙ながらに語りかけるのだった。ああ凱旋よ、長い間苦労をさせたあげくがこの有り様、本当にかわいそうなやつ、さぞ痛むだろうなあ、また無念なことだろうなあなどと、人に語りかけるように首筋を撫でさすって慰めながら、みずみずしい草をとって食わせてやり、扇で背中に群れる蚊を追い払うなどして、終日馬の傍を離ることができなかった。凱旋もまた病気になっても不幸を慰めるもののない中で、長く仕えて親しんだ主人に慰められて、うれしさや悲しさを抑えきれなかったのだろうか、それとも別れを予感してのことであろうか、中佐が近づく度にいつもより嬉しそうに両耳を動かし、悲しげに嘶いて唇を震わしながら何かを言いたそうにする様子で、中佐はますます悲しみに堪えず、走り寄っては背をさすり涙を堪えるのだった。試しに馬を人と見てお考えあれ。80日余りの間、ただ二人一緒に氷の上雪の中を旅立ち、言いようもないほどの苦労を共にして、一人は旅の途中で病臥し、一人は病む人を置き残して再び何千里もの先の見えない旅に出発するのである。その時の二人の別れはどんなものであろうか。言いたいことや聞きたいことが、人であればどんなにか多いことだろうに、言葉が通じないが故にただ嘶いて別れを惜しむだけである。その心の中は、どうして人に劣るだろうか。彼が動かした耳の底や彼が震わした唇の奧には、何千もの悔しさ悲しさが含まれていたのだろう。迷い犬が長い間街中を放浪していても道で元の主人に再び遇えば喜んで尾を振るように、また夜深けて道に迷っても馬は家に帰る道を知っていて主人を助けるように、犬や馬は獣の中でも精神性の高い動物である。それだけに私は益々凱旋の無念の情を悲しみ、この事を書かずにはおれないのである。

    中佐は翌日の5月18日にボルヂノを発とうとしていた。庭に下りて凱旋に別れを告げ、記念として鬣を切り取って懐に収めた。その場を去ろうとして躊躇い、何度か立ち戻ったが、馬もまた両前足を揃えて嘶きながら何度も空しく起ち上がろうとする。その心中は人間が袖にすがり裾にまとわりついて名残を惜しむ様子以上に哀しく、鉄や岩のような強靱な精神力をもった兵士でさえ涙を流さずにはおれないのであった。

    中佐は私に凱旋の事を語るときはいつも目を潤ませていた。おそらくその悔しかった日のことは深く心に刻み込まれて忘れることが出来なかったのであろう。ついには、私に向かって次のように言うのであった。あなたは凱旋のことを理解できる人である。だからこの記念の物を分けるので受け取ってほしいと、鞄の中を探って数本の鬣を取り出して差し出された。私はそれを受け取ってしみじみと見つめ、中佐の心中を思い出して語る言葉を見つけられなかった。家に帰って、戴いた鬣に水を注いで机の上に置き、遠く離れた凱旋の霊に向かって語りかけるのだった。お前が1万4千㎞の全行程を踏破できなかったのは決してお前の罪にはならない。お前の勇気は世界中が知り、お前の病気は世界中の人が悲しんでいる。そして、世の中の人を代表してそのことをよく理解し最も悲しんでいるのは、お前の主人である。お前の主人の手紙に書いてあった。ああ凱旋は勇気あり力強い歩みによって堅氷氷雪の中を2千6百㎞も行く、世に優れた名馬である。春も後半になってこのように病気に伏せる。この上もなく残念である。しかし、この度のよき経験は、英国産の馬がロシアの寒地旅行に堪えうることを十分に証明した。ああ凱旋よ、この主人の一言によってお前の偉大な業績は、この簡素な冊子に永遠に記録されたのだ。ああ凱旋よ、安らかに眠れ。

    ■暑気既至

    今年(明治26年)7月14日の午前10時に、私は牛込の中佐宅を訪問した。中佐が寒暖計を見たところ、列氏20度(摂氏25度)あった。中佐が話すには、自分が5月18日の午後、凱旋と別れてボルヂノを発ったとき、ちょうど今と同じ列氏20度だった。50日余りも早いのに暑さが同じなのである。そのことからも、ロシアの冬から夏への推移が早いことがお分かりいただけるだろう。

    中佐がボルヂノを発った日、通過する道に並木はなく、馬の上で炎天に曝されて行き、途中の綿布工場で休息した。この工場は、男女の職工800人を使用し、12ルーブルから40~50ルーブルの月給を与えて盛大に製造しているという。ウラヂミルから8露里ほど手前まで行くと、馬に乗ったり自転車に乗ったりして多くの人が出迎えに来た。中には酒と肴を携えて来る者もいる。凱旋の不幸を慰め、中佐の無事到着を祝って、歓呼の声が鳴り響いた。午後9時ウラヂミル市に到着した。ボルジノから40露里であった。ボルヂノの郡長と巡査1名がここまで中佐を送って来た。ウラヂミル市はウラヂミル州の首府であり、州知事がここで政務を執り、歩兵一連隊が駐屯する。歩兵将校は中佐を用意した宿に案内し、士官一名を接待係に付けて中佐の乗馬を消防隊の厩に繋いだのであった。

    ところで、このような長期の大がかりな旅行に用いる乗馬は、一ヶ月ほどは一日10露里ほどずつ試乗して、馬の足を慣らしておく必要がある。けれども旅行中に買った馬はその余裕がないので、旅行しながら足を慣らすのが良いとされている。最初から急に乗り続けたら馬を早くから疲れさせてしまう。それで、その翌日(5月19日)は一日逗留して馬を休め、歩兵の野営地や消防隊の演習を見学した。ここは小さな街であっても州都であるので、消防府40人、馬30頭、消防車12輌を備え、一旦警鐘が鳴れば緊急出動に5分もかからないという。翌5月20日の午前8時に出発した。巡査一人が騎馬で随伴して中佐を次の宿泊地まで送った。この日正午には列氏22度(摂氏28度弱)に上り、道路には緑陰もなく、風は止んでものすごい熱気で流れる汗が衣服をべとべとにした。馬もやはり大変疲れていた。44露里進んでドロズドバに着いた頃は午後7時15分であった。ドロズドバは小さな寒村で、お茶・鶏卵・黒パンの他には何もなく、夜は木の長椅子2脚を並べて寝台とし、その上に秣を敷いて外套を被ってようやく眠ることができたのだった。

    ■物資集積

    ドロズドバから5日間で171露里を進み、5月25日の午後1時にニヂニノブゴロド市に着いた。ニヂニノブゴロドから35露里手前の森の中に一軒家があった。これはニヂゴロツキー州とウラヂミル州との境界である。ニヂゴロツキー州の知事は警部巡査1名をここに出迎えさせていた。この辺り一帯の森林は鬱蒼としてどこまでも果てしなく続き、北の方はそのまま北氷洋に続いている森林の中ではしばしば火事があり、昨年の山火事では3ヶ月間消えなかったそうである。それだけでもこの森林がいかに大きいかわかるだろう。中佐は二人の巡査とともに森林を抜けてヴォルガ河に至り、前もって知事が準備していた汽船に乗って川を渡り、ニヂニノブゴロド市に着いて宿に入った。このニヂニノブゴロド市はニヂゴロツキー州の首府であり、兵営や州の庁舎などが建っている。ウラヂミル市から215露里、ヴォルガ河に臨んでやや小高いところにあって、遠く左岸を望めば見渡す限り鬱蒼たる大森林である。ここはモスクワ以東の大都会であり、毎年一回市を開き、ロシア各地の商人は勿論、中央アジアやコーカサス、ペルシャなど諸国の商人も市場に集まって交易する。市場の建物は我が国の商品陳列場(百貨店の前身)を大きくしたようなもので、規模がとても大きく、物資集積の盛況を予測出来るという。

    中佐は馬を休ませ、市内を一覧するためにこの地に留まること3日、26日は知事の昼食会に招かれ、夜は陸軍大将の夜会に列席し、27・28日の両日は知事の晩餐会に招かれ、厚いもてなしを受けた。28日は晩餐会の後、警部長と一緒に消防署に行き、その演習を見る。当地の消防は4組あるとか。最後に、警察署の小さな蒸気船をヴォルガ川に浮かべ、流れを溯って風景を見る。左岸は一面の平野と深い森林地帯であり、薄もやに包まれた鬱蒼とした樹林が川面に逆さに映り、右岸はやや小高くなっており、建ち並ぶ家々の白壁や青瓦が折からの夕日に照らされて川面に映っている。船はそんな絵のような風景の中をさざ波をたてて進んでいく。ベルリンを発って以来初めてこのような美しい光景に遇い、とても楽しいので帰るのを忘れて眺めていた。この川は汽船の往来が頻繁であり、上流はツウエル市、下流はカスピ海の港湾都市であるアストラハン及び東北のペルムに達して、そこで鉄道に接続している。川を行く船の中には時々アメリカ型の楼閣をもつ大型船がある。夜になると船の周囲一面に電燈を点し、明々と水の上を進む様子は、さながら火を吐きながら進む龍のようであったという。

    ■賢牧好官

    ニヂゴロツキー州知事である海軍少将バラノフ氏の歓待は、極めて懇ろかつ親切であった。バラノフ少将は歳のころ50過ぎで、露土戦争の折には水雷艇でもってトルコの鋼鉄艦をダニューブ河で沈めた武功をもつ人であるが、軍事だけでなく行政手腕にも優れ、民間の実状にも精通して、人々を子どものように大切にした。それ故、人々も知事を父のように慕い、知事が外出すると老人から子どもまであらゆる人が帽子を脱いで敬意をこめて挨拶するのであった。知事夫人もまた婦人の鏡のような人であり、慈善の心が深く、この辺りが三年間飢饉になったときには、お金や物を寄付して貧しい人を助け、また官舎の傍に小屋を建てて孤児院を運営したりしたそうである。優れた官人とよい妻の手本というべきであろう。この地の警部長も様々に準備して中佐を歓待した。警部長は在職50年、この地に勤務して25年の長きにわたるそうである。これもまたよい官人の例であろう。ロシアでは役人を転勤させることをあまりしない。長期間同じ地方で任期を全うしてその地方の人情や風俗をよく知り、そして行政を円滑に行うようにする。武官も同じであるらしい。

    5月29日午前6時、ニヂニノブゴロドを出発して行くこと42露里、チョルヌハ村に着いて駅舎に入る。この日は大雨で全身ずぶ濡れとなり、服の帽子もことごとく滴が垂れるのを体温で乾かしたが、夕方駅舎に入っても元々田舎の寂しい村のことであり、いつものように玉子と黒パンを食したのみである。辺境を旅するもの寂しさはこのようなものであるが、中佐の旅情を最も慰めたのはこの夜の來客であった。中佐が着いたと聞くや、村中の名のある紳士は皆駅舎を訪れて道中のことを尋ね、これから行く先のことを聞いたりして、満身の真心で壮図を讃え、中佐の健康を祈ったのである。中佐も豪華な宮殿で立派な御馳走の饗応を受ける以上に嬉しく感じ、粗末な藁葺きの家のほの暗い灯りの下で互いに胸襟を開いて打ち解けたのだった。村中の名ある紳士とは、村長・巡査・神父・技師・小学校教員などである。

    ■牧場道路

    翌5月30日、チョルヌハ村を出発し、6月1日ワシリスルスクに着いて一泊、それから6日間騎行してカザンに着いたのは6月8日であった。ニヂニノブゴロドからカザンまでは415露里、即ち110里余りである。この数日間の天候は暴風曇天3日、雨1日、雷雨三日である。ちょうど寒暖計が壊れていたので気温を記録していないが、非常に蒸し暑くて堪えがたかった。道路はヴォルガ川に沿って、左岸は見渡す限り森林であり、右岸は丘陵が連なり風景は非常に美しい。川の岸近く行く時は、時々川を遡る囚人船を見た。囚人はこれまで陸路でシベリアに送られていたが、最近は汽船や汽車でオデッサ港に送り、そのままサガレン島(サハリン)に護送することが多いそうである。

    ニヂニノブゴロドまでの道路は石で敷き詰められているが、ニヂニノブゴロド以東は築堆道はなく、真っ平らの野道である。この道はシベリアに行く者が必ず通るウラル街道であり、 道路の規模はヨーロッパのどこでも見ることがないほど大きく、道幅は52メートル即ち我が国の26間もある。道路の両側はそれぞれ3間の幅で各2列の並木が植えられ、中央の20間が人馬往来の道路となっている。並木はいずれも樺の木である。野道は築堆道に比べて騎行にはとても快適で、おまけに道路の両側4列の並木は枝葉が茂って緑陰が道を覆って熱気を遮ってくれる。しかし鉄道はニヂニノブゴロドで終わり、ここから東のカザンまでは汽車の便はないものの、旅人や物資の運搬は全て汽船によってヴォルガ河を行き来するため、河川が凍結した時でなければこの大きな道を利用することがなく、緑陰青草の季節にこの道に人馬の足跡が刻まれることはほとんどない。

    それ故、このような大規模で広大な道路も修復が行き届かず、並木が風によって倒れても補うことなく、側溝が雨によって壊れても修理せず、一条の大道は荒れるにまかせ、草は勝手気ままに生い茂って馬蹄を深く埋めるのである。近くの村の農夫はこれはしめたと、みんな家畜をこの道路に放して、思いのままに道に生えた草を食わせ、みずみずしい草を追う移動放牧をしない。見渡せば、まっすぐ続く大きな道の上で牛・馬・羊豚などが夕日の中で点々とたたずんだりうずくまったりしながら美味そうに草を食んでいる様は、そのまま立派な牧場である。ニヂニノブゴロドからペルムまでの265里の光景はすべてこのようであった。幅26間、長さ265里、これをかけ算すると大道は千四百八十八万二千四百坪の大牧場ということになる。広大というべきであろう。

    今では築堆道を離れて柔らかい土や青い草の野道を騎行し、木蔭で涼みながら広く大きな道路を旅しているから、中佐が大変便利で快適だと喜んだのもつかの間の空しい希望であった。新馬烏拉(ウラル)は去勢をしていない攻撃的な馬だったので、この牧場のような大道に入って道の上に放された馬をみるや、狂暴さを抑えることができず、ある日などは中佐が下馬して牽いていた時に、急に興奮して中佐を引き倒して農馬に飛びかかって傷を負わせたり、またあるときは同行している巡査の馬に噛みついたことも二度あり、一度は巡査が身をかわしたので鞍の後輪に噛みついて歯を折ったこともあった。こんなことが何度繰り返されたか分からない。先頃は、氷雪が全て消えて騎行が便利になったと思ったら凱旋がそれ以上進めなくなり、この度はようやく騎行しやすい道路になったかと思ったら、新たに購入した馬が凶暴である。これから先の道程が思いやられそうだ。

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