第1章:亡国山河
明治25年2月、ベルリンに駐在していた福島安正少佐は武官としての任期満了とともに、単身騎馬でユーラシア大陸を横断して日本に帰国するという冒険旅行に出発しました。出発後間もなく中佐が見たのは、大国ロシアによって国を亡ぼされたポーランドの痛ましい姿でした。

  • ■独都発程

    明治25(1892)年2月、福島安正中佐は11日の紀元節(建国祭)をもって遠征の途に就こうとしていた。これより先、ドイツ皇帝ヴィルヘルムⅡ世は、中佐を謁見して勲三等赤鷲章を賜り、激励のために送別の宴まで開いた。伯林(ベルリン Berlin)在住の日本人は、福島中佐を知る人もそうでない人も皆一堂に会して宴を張り、中佐の旅の安全を祈った。発程の日、姉小路伯爵や大迫少佐、浅川中尉、土方少尉など数氏が、馬に乗ってベルリン市外まで見送り、帽子やハンカチを振って別れを惜しんだ。

    「丈夫非無涙 不濺離別間」と歌にはあるが、中佐の今回の旅はただ単に帰国することだけが目的ではない。通過する土地の風俗や人情は荒々しく野蛮である。異境の軍事情勢を観察し、外国の地理情報を調べることで、祖国防衛の資料とすることができればと思うのである。肩には日本帝国軍人としての重大な責任を負い、身には一振りの軍刀と姉小路伯爵から贈られた5連発銃、そして地図を帯びるのみである。それ故、単騎遠征の途に上るけれども、その成否は全くわからない。この先旅の途上において死ぬかどうかがどうして今わかるだろうか。

    中佐は鞍にもたれかかって身をひねり、後を振り返って、見送りの日本人そして数年を過ごしたドイツの地に別れを告げたのである。中佐の意気込みはもちろん盛んであったけれど、心の中では寂しく悲しい思いを抑えることは出来なかっただろうと思われる。市外の一村落に着くと、久保なにがしとかいう人が中佐を待ち受けていた。酒を勧められ花を贈られて別れを告げた。

    ベルリン以東で最初に宿るミンヘンブルクに着くと、二宮熊二郎、三増久米吉の二氏がベルリンから来て、既に旅館の手配をして待っていてくれた。駅外の道は二つに分かれている。翌日(2月12日)、中佐は左の道をとって出発し、二人とここで別れた。二人は道ばたに立って、そのうちに中佐は振り返らずにおられないだろうなあ、などと話ながら見送っていた。中佐もさすがに後ろ髪を引かれる思いがして振り返り、二人がなおも帽子を振っているのを見て、いたたまれず馬に一鞭あてて駈けだした。見送る二人は抱き合って泣いた。これこそまさに、ベルリンにおける同胞との最後の別れとなったのである。


    ■沿道歓呼

    中佐が単騎遠征を計画していることは早くから欧州全土に伝えられ、ドイツの各新聞紙面にも全て掲載された。さすがに迅速な通信や教育の普及したドイツであるから、どんな片田舎でも、この単騎遠征のことを知らない人はいなかっただろう。中佐が騎馬で通過する市や町や村々では、窓を開けて身を乗り出して見たり、家々の前に集まった老若男女がハンカチを振るなどして、口々に「道中ご無事で」と叫びながら中佐の通過を見送った。中佐はそれらに対して右手を挙げて無言で敬礼し、堂々と馬を歩ませた。国境に至るまでどの街でもそのような状況であった。

    ヨーロッパの中で鉄道網が最も発達しているのはベルギーであり、次はドイツである。四方八方に線路が網のように広がり、行楽用の短距離路線以外は全て官営鉄道である。これは、利益の大小を平均して経営を計画し、交通を盛んにすることを目的とした結果である。このように鉄道網の発達した後は、旅客は汽車の方が便利なので、道路を利用する人が少なくなる傾向がある。我が国では東海道線が全通してからは昔の参勤交代に使われた東海道が荒廃してしまったが、決して全ての街道が荒れ果ててしまってよいものではない。いくら鉄道の開通によって街道を行く人が少なくなったとしても、一条の大きな道が坦々と滑らかに続くのは、まさに危急存亡の一大事に備えてのことなのである。

    ここドイツの街道幅は10~15mあり、100m毎に石標が立てられている。道幅の半分は人や馬車の通行する石畳、残りの半分は騎馬道として砂を敷き詰め、両わきには並木が植えられている。沿道には整備の行き届いた森が広がっており、大変美しい風景である。


    ■独露国境

    独露国境まで来ると、ドイツ側にもロシア側にもそれぞれ一つの柵門を設けている。門は二本の杭を立てて鉄の鎖が一本掛け渡してあるだけである。境界は二~三間(4~5m)を隔てて立つ柵だけであり、(彼我の距離近きことは)日本の川中島における甲州と越後の境界だけではなかったのだ。ドイツの柵門には憲兵二人が両わきに立って見張りをしている。銃は携えていない。ロシアの側には国境警備のために特に編制された警備兵一人が銃を担いで立ち、行く人に誰何している。ロシアの柵の傍には国境警備の兵舎があり、士官と兵卒若干名が駐屯している。

    この辺りは一面の平野丘陵であり、境界はその間を縫って走っているので、見渡すと点々と散在する村々のどこまでがドイツ領でどこからがロシア領であるのか判然としない。この独露国境の話を我が日本の周辺状況と比べ合わせてみるとき、恐怖でぞっとする思いである。我が日本の周囲は海で囲まれて直接に隣国の境界の制約・制限を受けることはない。それは喜ぶべきことではあるが、しかし一方、それ故に日本は俗世間を離れた仙人のように世界の緊迫した情勢を知ろうとせず、四辺を海に守られた島国の中で太平の夢を貪っている。どうしてこれが悲しまずにおれようか。物事をよく知らない愚かな人々をして、この独露国境の間に立たせたならば、どう思うだろうか。

    中佐がロシア領に入り、ロシア皇帝から与えられた旅券を国境警備の兵に示して柵門と税関を過ぎると、国境警備兵が騎馬で導いてくれた。そのとき、背後に別の騎馬の物音がした。振り返ってみれば、11~12才ぐらいの少年が一人鞭を挙げて近づいてきて、携えていたおもちゃの軍刀を抜いて敬礼をした。彼は中佐のことを聞いて敬意の念を抑えきれず、自ら軍装を模した姿で見送りに来たのである。見上げた心意気ではないか。少年は例の警備兵と同様、警備管轄区域のはずれまで行って中佐を見送った。このことをもってしても、武勇を重んじる気風の非常に盛んなことがわかるだろう。

    ■修飾無用

    中佐があの少年や警備兵と別れてからロシア国境に近い宿駅のコニンに近づいたちょうどその頃、コニン駐屯の軽騎兵第十三連隊の将校が、軍楽隊を引き連れて市の近郊に出迎えた。中佐は連隊の将校達の歓迎晩餐会に招かれ、予め用意されていた旅館に投宿した。コニンは国境から28露里にある小市街であり、兵舎の他に人家は二千戸ほどもあろうか。

    翌日、コニンを出発する際には騎兵一中隊が中佐を見送った。この日は馬をいたわって、コニン東方38㎞にあるコーロに一泊する予定である。見送りのコニンの中隊とは途中で別れ、中佐は3、4人の士官と一緒に進んだ。途中、コーロ駐屯の軽騎兵一中隊の出迎えを受けた。この中隊は第十三連隊の分営である。中佐は先頭を進み、出迎えの一中隊がその後に従った。軍楽隊が太鼓を叩き、中隊は行軍歌を歌いながら進んだ。勇ましく快いことこの上もない。そのとき、中佐の乗馬である凱旋はこのような大きな音に慣れていなかったので驚いて大きく跳び上がり、その拍子に馬の首が中佐の顔面に激突して中佐の前歯一本を折ってしまった。唇から出血していたので、出迎えの中隊長が急いで膏薬をポケットから出して、これをお貼り下さいと中佐に渡したので、中佐は少しだけ取って唇に貼り、この先また歯を折られたときのために残りの膏薬はいただいておきましょうと言って、二人は互いに笑い合った。

    折れた歯は歯ぐきから離れずにぶら下がっていたけれども、途中に歯医者がなかったので、ぶらさがったまま食事をして、4日後に波蘭の古都ワルシャワに着いたとき、ようやく歯科医を呼んで歯を抜き取った。歯科医はすぐにゴムで作った義歯を入れてくれたが、入れ歯ほど口の中の感触の悪いものはないだろう。中佐は口をもがもがと動かしながら医者に向かって、この義歯は健康のためかそれとも外面を繕うためかと尋ねると、前歯一本欠けたとしても健康にはさして支障はありません。ただ見た目が見苦しいだけですと答えた。中佐は、健康のためであるならば心地悪いのも辛抱できよう、私は外面の修飾は無用であると言って入れ歯を抜いて捨ててしまった。ロシアの新聞はこのことを書き伝えて、中佐の飾り気のないありのままの姿勢を賞賛した。

    ■亡国山河

    国は亡び去り、君主の地位は汚されて山河のみ空しく残り、一面の麦畑の上には冷たい風が吹き渡っている。中佐は波蘭のたどった無念の歴史を思うにつけ、馬を停めて感慨を禁ずることができなかった。波蘭の古都ワルシャワの市外に立ちつくし、当時の変乱の日を思い、惨憺たる有り様に心を痛め、もの寂しい景色に魂も消える思いである。振り返って波蘭国内の人心を察するに、ロシアの圧政に立ち向かう気概も次第に衰え、支配に甘んじ卑屈に過ごして辛うじて敗残の生を細々と営む。これを悲しまずにおれようか。 国内にはしばしば豪族がいる。財力に富み豪壮な邸宅に住む。彼等はかつての抵抗運動に加わらなかった者たちであるが、ロシアに対して蜂起した者はその大部分がシベリアに流されたり財産と権利を没収されたりして、余命を細々とつないでいるに過ぎない。中佐は波蘭に入ってその実状を見るに及び、涙を流さずにはおれなかったのである。

    ■波蘭沿革

    ああ、 二百年前のポーランドは実に中央ヨーロッパ有数の大国として、北はバルト海から南は黒海に至る広大な領土を有し、国土面積はフランスやスペインに肩を並べるほどであった。当時、プロイセンはまだ統一王国ではなく、ロシアもまた小さな国が分立する地域に過ぎなかった。諸国の上に雄々しく君臨する唯一の国、それがポーランドであった。その国民は正義心と勇気に溢れ、将兵は素晴らしく強かった。

    諸国はそのようなポーランドに対し畏敬の念をもって接していたが、盛者必衰の理には逆らえず、(気付いた時には)既に国の大本となる綱紀は緩み、役人の規律が崩れていた。国の指導者たちは政権の奪い合いで潰れてゆき、一般の国民は度重なる選挙の紛争に疲れて(国民としての誇りや国を守る気概を失い)、次第に国家としての基本的な形すら維持できなくなり、遂に国勢も衰えてしまった。優良な国民や精強な軍がありながら、政治と行政がそれらを上手く活かすことをしなかったのである。

    ちょうどその頃、東にロシア西にプロイセンがにわかに勃興して、新しい強国として周辺の国々に強大な影響力を及ぼし、ポーランドもまたその勢いに飲み込まれていく。そして1772年には、プロイセン、オーストリア、ロシアの三国によって、国土の3分の1が奪い取られてしまったのである。

    そしてなお、未だ国情は安定せず国内外の紛争が止まなかった。心ある人々が武器を持って起ち上がり、侵略された国土を奪還しようと勇ましく戦ったけれども如何ともし難く、川を血に染め屍の山を築いただけであった。1795年、ついに抵抗運動は力尽き、国は焦土となって荒廃し、広大な国土は全て周辺三国によって奪い取られてしまった。

    その後、ナポレオン1世がヨーロッパを制覇するに及び、ポーランド軍6万人がフランス軍に合流し、祖国独立の希望を細々と抱き続けるも、天の助けはなく人の力も尽き、ワーテルローの会戦でフランス軍が敗北するとともに、ポーランド独立の希望はあえなく絶たれてしまった。ああ、これは一体誰の罪なのであろうか。綱紀頽廃して国内は乱れ、対外的に重要な政策を疎かにした結果であろう。よくよく考えるべきことではないだろうか。

    ナポレオンがセントヘレナ島に流罪となるや、欧州各国は領土をはっきりと定め、ポーランドの地はロシア帝国の支配する王国とされ、ロシア皇帝がポーランド王を兼務することとされた。軍務や行政はまだ少しはポーランド人の手に委ねられてはいたが、ロシアの干渉は次第に大きくなり、人々の反発は収まらず、1830年にオランダ支配下のベルギーが武装蜂起して独立を果たすや、ポーランドの愛国者たちも起ち上がってロシアと戦うも、大軍を相手に勝ち目はなく敗れ去った。1832年2月16日、ロシアは勅令によってポーランド王国の権利を全て剥奪し、完全にロシアのものとしてしまった。

    この蜂起においてポーランドの人々は、ベルギーの時のように周辺強国の助けがあることを密かに期待していた。オランダのごとき弱小国の場合には他国も横やりを入れることをはばからなかったが、強大なロシアに対しては、虎の尾を踏むような勇気ある国はなかったのである。

    かつて、ポーランドはオスマントルコに包囲されたオーストリアを救い(1683年)、アメリカ独立戦争を共に戦う(1776-1783)などして、その義侠心は世界の賞賛を浴びた。今や私欲を以て他を推し量り、自分の実力をたのみとせず、頼るべきでないところをあてにする。国にとって重大なチャンスが失われるのももっともなことである。

    1863年1月、ロシアによる苛酷な政治に苦しんでいたポーランドの遺民は再び武装蜂起するもまもなく鎮圧され、数万人の優れた将兵が(家族ともども)極寒のシベリアに流された。反乱に関与しなかった人々もまた自由を剥奪され、公用語としてロシア語を押しつけられてポーランド語を話すことを禁ぜられたのである。その悲惨な有り様は口にするのも耐えがたいほどである。ああ、生きる目標を失った亡国の民ほど辛いものはないであろう。

    ■露領十州

    山河は空しく残り、波蘭のかつての栄華を偲ぶ遺構のみあちこちに散在している。ロシアにかすめ取られたポーランド領の十州は面積127,319㎢、人口8,256,000人余である。その内1,134,000人余りがユダヤ人という。全ヨーロッパのユダヤ人6,500,000人余りの約半数はロシア領内にいるが、ポーランドにはその3分の1が住んでいる。

    ■波蘭懐古

    十州の首都はワルシャワである。人口は約50万人であり、ペテルブルグ、モスクワに次ぐ大都会である。ヴィスワ川の両側に広がるワルシャワには五本の鉄道がつながり、街路は整然として住宅が軒を連ね、人々は正義感にあふれる。 世間ではワルシャワを小パリと称している。旧王宮は厳然として優雅な姿を遺し、ここを訪れる各国の旅行者は、かつての栄華をしのんで涙を流すという。

    ■下士婚礼

    2月21日コーロを出発して47露里、クッノから10露里余りのところに一人の士官が出迎えた。クッノは猟兵第4連隊の駐屯する所である。導かれて将校の宿舎に入る。盛んな饗応を受け、紀念章も贈られた。ロシア領に入って初めての紀念章である。この夜、一人の下士官の婚礼があり、下士官たちが宴を催した。中佐のところにも案内があり、貴下のご臨席を賜ればこれ以上の光栄はないとのことであった。そこで、中佐は連隊長と一緒に宴席に臨んだ。各大隊長や中隊長、大隊の士官やその親戚友人等が皆参会した。ロシアは本来階級を尊重し、身分や地位の上下の違いは大きい。故に、上官が部下を統率するには規律を第一とし、指揮は極めて厳しい。ところが、この夜は客も主人も皆へだたりなく打ち解け、身分の上下の別なくみんなが一つになって新郎新婦の健康を祝い、和気藹々と飲み食いして、互いに手を取り合って踊ったのである。連隊長も大隊長も新郎新婦と手をつないで踊る様子は、まさに和やかな一家のようである。おそらく、公には厳しく私事には情をもって接する、これがロシアの特別な習慣なのであろう。

    中佐の到る所ではしばしば夜会を催して歓待してくれた。ロシアの冬は寒さ厳しく、その期間も長い。故に、室外に出ることは少なく室内で過ごすことが多い。屋内での遊び道具はたくさんある。カルタ(トランプ)は最も多く行われ、ダンスもまた盛んである。夜会では特にカルタ遊びをしない日はなく、カルタほど夢中になって夜の深けるのを忘れるものはない。だから、ロシアの夜会は他の国のそれよりも夜が深けるのが早い。大抵午後八時頃から集まって、カルタやダンスををして深夜の12時か1時頃まで遊び、更に酒を飲みながら食事をして2、3時間過ごすので、夜会の終わるのはいつも明け方の3時か4時である。中佐はいつも夜会に出席し、どんなに夜が深けても翌朝は7時か8時に出発した。

    2月23日にラビユッチュという所に着いた時の夜会では、午前5時に散会したのだが、椅子に寄りかかってうつらうつらとまどろんだかと思うと既に7時頃になっていたので、すぐに準備をして午前8時に出立した。このように夜も眠ることができないにもかかわらず、その日は78露里を進んで午後6時にはワルシャワに着き、すぐに電報で前夜の夜会のお礼を言い送った。その身体の強健さはこのようなものであった。ロシアの夜会で最も不思議なことは、上流階級の婦人達が平気で喫煙すること、また主人夫婦は食卓に着かず自ら客人の食事の世話をすることなどであるが、これは決して他のヨーロッパの国々でも稀にしか見られないことであるそうだ。

    ■十三日橋

    ニーメン川の南は波蘭、北はロシアであり、一条の川が二つの地域の境界となっている。そして、橋の長さは渡り終えるのに13日かかるのである。中佐は3月7日にニーメン橋を渡り始め、2月23日に橋を渡り終えた。日が逆戻りしているのである。世界広しと言えどもこのような奇妙で長い橋はないだろう。だから、この橋のことを13日橋と言う。お疑い下さるな、これは波蘭の人が新教を信じて太陽暦を用い、ロシア人がギリシャ正教を信じて独特のロシア暦を用いているが故に、橋の南北では暦の上で13日の差ができるのである。例えば、露暦の1月1日に北から橋の南に渡ると、瞬時に1月13日となるのである。とは言うものの、橋の長さは東京の両国橋ほどでしかなく、面白い話だと言える。

    ■老人感奮

    2月28日、ワルシャワを出発。近衛騎兵旅団長は部下の槍騎兵二連隊の将校や楽隊を率いて中佐を市外まで見送った。55露里行ったブルックスに一泊した。更に5日間212露里進んで、スワルキーに着いたのは3月5日のことだった。この辺りはなだらかな丘陵地帯であり、高低差の少ない土地が波のようにうねっている。ワルシャワを出発してから益々寒く、その上に積雪も深くなり、常に真っ白な雪が乱れ舞う中を騎行し、スワルキーに至っては寒気益々強く、列氏零下14度(摂氏零下17.5度)となった。軽騎兵第6連隊がここに駐屯している。中佐は将校団の賓客となって厚いもてなしを受け、記念の勲章を授与された。そのとき、一人の騎兵中佐がいた。年の頃50才ばかりで、中佐と話をしてその壮大な計画を聞き、感激して興奮することしきりであった。

    翌6日、この老中佐は、風雪がひどく気温は列氏零下17度(摂氏零下21度強)にも下がったのにもかかわらず、自らを奮い立たせて中佐に見習って馬に乗り、吹雪の中を一日57露里進み、マリヤンポルまで中佐と同行した。ベルリンを出発して以来、見送りで町の外まで同行する人は多かったけれど、次の宿泊地まで一緒に行ったのはこの老武官が初めてである。マリヤンポルから後、二三の士官がしばしば遠くまで見送って同行することがあったのは、おそらくこの老武官に刺激されてのことであろう。この夜はマリヤンポルに駐屯する軽騎兵第5連隊長の官舎に投宿した。

    翌3月7日、一人の騎兵中尉に送られて53露里を進み、コブノに着いた。コブノには軽騎兵第7連隊が駐屯しており、連隊長が将校と楽隊を率いて市外にまで出迎え、中佐を官舎に案内して宿所を提供してくれた。中佐は馬を休ませるために翌日も滞在して、あちこちを見学した。コブノは国境以北における堅固な要塞である。

    3月9日コブノを出発した。三人の若い士官が見送って同行し、65露里を進んで暗くなってからヴィルクメルゲに着いた。この地に駐屯する軽騎兵第9連隊長は、夜分にもかかわらず将校を引き連れて、約8露里のところまで出迎えに来て、中佐を官舎に案内してくれた。

    次の日(3月10日)も三人の若い士官に送られて60露里進み、ウヂャニーに着いて波蘭人の豪邸に宿泊した。待遇は極めて鄭重であった。翌日(3月11日)は69露里を行き、ヂナブルク(ダウガフピルス Daugavpils)の一旅館に宿泊した。例のヴィルクメルゲから中佐を送って同行してきた三人の士官とはここで別れた。

    ■兵備疎密

    独露国境からヂナブルクに至る約800露里の間は、どんな村里や市街地にも随所に兵の姿が見られ、視界に入る全てのものが兵士であると言っても過言ではない。歩兵、騎兵、砲兵の兵舎が林立し、中佐は騎馬の客人として騎兵団の手厚い歓迎を受けた。おそらく、ドイツやオーストリーとの国境には、ロシア陸軍の8~9割を割いて備えているのであろう。そのうち、ドンコサック兵はわずか二連隊だけである。ドンコサックは全くの常備兵であって屯田コサックではない。シベリアコサックの馬は体格が小さく他国へ威力を見せつけるには物足りないが、ドンコサックの馬は太く逞しいので、強国との国境には屯田コサックを置かず、ドンコサック二連隊だけを駐屯させているのであろう。国境における兵備はこのように密なのである。ところが、ヂナブルク以北首都ペテルブルグに至る512露里の間はプスコフに一隊が駐屯するのみで、沿道の鬱蒼とした大森林には全く兵士の姿を見ることがなかった。故に、ヂナブルクから北は再び送る者なく、中佐は愛馬凱旋とのみ孤独な旅をするのであった。

  • ►►次ページ「第2章:露国明暗」に進む►►